猿酒を見るとなぜ死ぬのか!?~秋田県の伝承と呪いの甕の謎~

猿酒という酒をご存知でしょうか。

白土三平の漫画『サスケ』や『はじめ人間ギャートルズ』などにも登場したので年輩の方は聞いたことがあるのではないでしょうか。

聞いたことはあるが、内容は知らないという方も多いと思いますので、ここで猿酒について記してみようと思います。

猿酒とは、一般的には猿が集めておいた果実が自然に発酵したお酒のことを指し、そうして偶然にできたお酒を猿が飲んでいたということから付けられた名といわれています。

しかし、この猿酒、様々な言い伝えや文書があり、私たちが想像する一般の酒とはまったく違うものだったのです。

様々な書物に記された謎の酒

この猿酒に関する伝承は日本の各地に残されています。

皇都午睡

西沢綺語堂こと西沢一鳳の見聞録『皇都午睡』(みやこのひるね)ではこう記されています。

木曽の猿酒、岐蘇の猿酒は以前信州の俳友より到来して呑たるがこは深山の木の股節穴などの中へ猿秋の木の実を拾ひ取運び置くたる雨露の雫に熟し腐るを山賎見出して持返り麻の袋へ入絞りし物にて黒く濃して味渋みに甘きを兼ていかさま仙薬ともいふべき物也

木曽の深い山中にある猿酒は、木の股や節穴などへ、猿が秋の木の実を拾い集めておいたものが雨露の雫で潤い、それが発酵してお酒になったものでした。

とある木こりがそれを見つけて持ち帰り、麻の袋に入れて絞ったところ、黒くて濃い液体となり、味は渋みと甘みが感じられて、ちょうど仙薬のようであったということです。

俚諺集覧

江戸時代の国語辞書ともいわれる太田全斎著『俚諺集覧』(りげんしゅうらん)では、

猿酒。猿の甘酒とも奥州南部辺にありと云ふ。猿が木の控へ木の実を入おきて製して人見つけて是をとると云へり

と記されており、奥州の南部にも猿酒として知られるお酒があったことについて述べられています。

こちらも猿が木のうつろに木の実を入れることによってでき上がったもので、やはりこれも見つけた人が持ち帰って飲んでしまうということです。

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嬉遊笑覧

また、江戸時代後期に喜多村信節がまとめた『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)にも、

秋坪新語。忠州山中黒猿酒善醸酒ことを載す。酒といへりみさごすしに対すべし

と忠州にある山の中で黒い猿が酒を造るという話が載せられています。

紫桃軒又綴

さらに中国、明代の文人であった李日華著の『紫桃軒又綴』にはこんな話があります。

黃山多猿揉,春夏采雜花果於石窪中,醞釀成酒,香氣溢發,聞數百步。

野樵深入者或得偷飲之,不可多,多即減酒痕,覺之,眾揉伺得人,必腸死之。

簡単に翻訳してみましょう。

黄山という山には猿がたくさん住んでおり、春から夏にかけて花や果物を採ってきては石の窪みに集め、それが発酵してお酒になるのですが、できるお酒の香りが非常によく、あたり一面に漂うとのことです。

やがてこの香りを嗅ぎつけた木こりたちがやってきて、これ幸いとお酒をさんざん飲んで酔っ払ってしまいます。

しかしながら、酔っ払った木こりたちのところへ猿の大群がやってきて、彼らをなぶり殺しにしてしまうというのです。

このように、猿酒と言えば普通は猿が造ったお酒のことなのですが、これとは異なる猿酒についての伝承も存在しています。

中でも、菅江真澄の紀行文の中に登場する秋田県の猿酒は非常に特殊なものでした。

千年の秘薬 ~菅江真澄が記した猿酒の造り方~

菅江真澄といえば江戸時代の紀行家また博物学者でもあり、特に東北を旅して見聞きした人々の暮らしや風習を記録して、後に本にまとめたものが有名です。

この紀行文の中に、秋田県の平鹿郡一帯に伝わる有名な猿酒についての記述があります。

言い伝えによれば、猿酒は前九年の役(1051-1062年)の頃に造られたとされています。

この役は、清原武則が都から来た八幡太郎義家側に付き、陸奥の安倍貞任と戦って倒したという出来事ですが、この戦いで勝った清原武則は出羽・陸奥を収める豪族になりました。

そう、この清原武則の代に猿酒が造られたというのです。

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猿酒の造り方とは

まず、山で大猿を3匹仕留め、倒した大猿の肝と背の肉を30日の間水にさらします。

次いでそれを天日に当てて乾かし、美酒に漬け込みます。

その後、炎天下で干し、塩水に3年漬け込んで完成したのが猿酒です。

つまり、ここに記されている造り方から考察しますと、猿酒とは猿の肉片が漬け込んである塩水のようなものであったということになります。

この猿酒は、お腹の病に良く効く薬とされており、1000年が経ってもその効能が失われることがない秘薬として扱われていました。

島田家に現存する猿酒

この猿酒はやがて島田源助という武士の手に渡ります。

後三年の役(1083-1087年)の際に、当時は金沢にあった主君の城が落ちて逃げ延びる際に、家宝であったこの猿酒の甕を持ち出したのです。

やがて島田源助は山内村(現在の秋田県横手)の田代というところに身を隠します。

猿酒はお腹の病、特に霍乱(かくらん、コレラのこと)などに良く効いたため、島田源助はそこに定住して薬売りとして生計を立てるようになりました。

この時持ち出された甕と猿酒は、実は現在も存在しており、島田源助の子孫が厳重に保管しています。

その飴色の土甕は高さが1尺8寸5分、口径が7寸、周囲は3尺8寸5分あり、菅江真澄がこの形状を図解して書き残していることから、間違いないと言われています。

この甕は汲みだすための四つ椀を添えて丁寧に木箱に収められています。

この四つ椀というのは、大小のものを四つ重ねた木の椀で一番大きいものは径が5寸で2合5勺の容量がある大きな器です。

この椀を使って口径7寸の甕から猿酒を汲み出すには、狭い隙間から親指と中指と薬指の3本で椀の端をつかんで上げるというなかなか難しい作業をしなければならなかったということです。

昭和8(1933)年 秋田魁新報の記事

神として祀られた恐怖の甕

さて、この猿酒には、甕の中身を見た者は死ぬという言い伝えがあり、所有者の家でも家主以外は触ることさえ禁じられていました。

甕から猿酒を汲み出す時の音は、液体というよりも金属のような不気味な音で、女性や子供たちは物の怪のように恐れたといいます。

後三年の役の前の金沢でのこと、ある祇園寺の和尚がこの猿酒の甕の中を見せてほしいと頼んできましたが、島田源助はいつも断っていました。

しかしある時、死んでもいいから見せてくれと懇願されて、しぶしぶではありますがついに猿酒の甕の中身を見せたところ、この和尚は1年も経たずに亡くなってしまったというのです。

伝承はさらに続きます。

それから数十年後に、同じ寺の和尚が、自分の先祖が死んだのが本当かどうか試すと言って、猿酒の中身を見たところ、やはり1年ほどして死んでしまったといいます。

これが猿酒の呪いといわれる所以です。

それ以来、島田家では猿酒を薬としても売らず、誰にも見せないようにし、家宝また神として祀ることにしたということです。

なぜ猿酒を見ると死ぬのか!?~大猿巫女の呪いか~

この猿酒について、菅江真澄の紀行文『雪の出羽路』の中で

世はひろしといへども、清原ノ家に伝えて、この酒殿のおほみ神は、女ノ君にてさふらへば、此酒もてよろづのやまふを癒すしるしをうる也。あなからいから、しょっからの酒也

と記されています。

つまるところ、猿酒には女神が宿っており、病を癒す力はその力によるものだと説明されています。

小桑やアケビなどの果実からできた猿酒にも、ある種の力が宿っているとされています。

民話においてはたまたま山で見つけた猿酒を持ち帰ると、猩々(しょうじょう、猿によく似た酒好きの妖怪)がそれを取り返しに来るという話も伝えられていますが、こちらの猿酒は原料が猿の肉です。

民話では、大猿は妊娠した猿のことを指す場合がありますが、1頭の妊娠した猿を殺した呪いで家が没落したという話も多くあり、これが3頭だとすると恐ろしいことになります。

菅江真澄の紀行文では、この酒に「女ノ君」(めのきみ)が宿っているとありますが、この語は猿女君(さるめのきみ)に通じ、猿女君は古来より巫女のことを表わして用いられているのです。

もしも、この猿酒に使われた3頭の大猿が妊娠した巫女だったとすると、さらに恐ろしい呪いがあると考えられても何の不思議もありません。

このあたりが、甕の中身を見た者は間もなく死ぬと言われる所以なのではないでしょうか。

猿酒を見るとなぜ死ぬのか!? まとめ

もっとも、一般的には猿酒というのは猿が集めておいた果実が自然に発酵したお酒のことで、猿が好んで飲むというところから名付けられたものです。

見たものは呪いで死ぬといっても、偶然が重なってもそれほど頻繁にあることではなさそうですし、私たちが見る機会を得ることもないでしょうから心配には及びません。

多分に猿の赤ら顔から連想されるイメージが猿酒の伝承を形作ったともいえるのではないでしょうか。

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