酒呑童子|絵巻物に登場する酒好きが命取りとなった鬼

酒呑童子は昔ばなしや民話などに度々登場する鬼です。
御伽草子などでお馴染みの鬼といえば、「酒呑童子」ではないでしょうか。
「酒を呑む」と表記されるように、酒好きなことで知られています。
しかし、酒呑童子の特徴は、それだけではありません。
さまざまな伝承や書物から、さまざまな姿が読み取れます。

知られざる酒呑童子のバックグラウンドを覗いてみましょう。

 

酒呑童子とは

酒呑童子(しゅてんどうじ)は、現在の京都にある大江山(大枝山という説も)を根城にしていた鬼、あるいは盗賊の頭領の名前です。
妖狐の化身である玉藻前(たまものまえ)や、鬼神の大嶽丸(おおたけまる)とともに、日本三大妖怪の一人に名を連ねています。

室町時代の『御伽草子』や、『大江山絵詞』のような絵巻物などの題材として、古くから扱われてきました。
現在では、浄瑠璃や歌舞伎といった伝統芸能から、ゲームやアニメのキャラクターとしても根強い人気を誇っています。

さまざまなジャンルの創作物で親しまれる背景には、生い立ちの秘密や鬼となった経緯などに、数多くの逸話が残されているからです。
酒呑童子にまつわる、さまざまな説をまとめてみましょう。

 

酒呑童子の生い立ち

酒呑童子は、生い立ちからして、多くの説が挙げられています。
生まれたときから人外の存在だったとする説や、もとは人間であったが、悪事を働いたため鬼と変じたとされる説など、じつにさまざまです。
興味深い説を、それぞれご紹介します。

ヤマタノオロチの息子という説

八岐大蛇

酒呑童子の生い立ちとして、ヤマタノオロチの息子ではないかという説があります。
ヤマタノオロチとは、日本神話に登場する伝説上の生き物で、八つの頭をもつ蛇のことです。
大酒を呑む蛇で、出雲の国で生贄の娘を喰らおうとしていたところ、スサノオノミコトによって退治されました。

しかし、命を落としたわけではなく、全身を切り刻まれながらも逃げ延びたとされています。
現在の滋賀県にある伊吹山に逃げ込み、伊吹大明神として祀られたというのです。
その後、人の姿を借りたヤマタノオロチは、玉姫という姫と結ばれ、子を成します。

生まれたばかりの子は、髪や歯が生え揃っており、しゃべることもできたと言われています。
伊吹童子(いぶきどうじ)と名付けられ、7歳まで無事に育ちますが、玉姫の父親の手によって谷底へと捨てられるという運命をたどります。

理由は、伊吹童子があまりにもヤマタノオロチの化身とされる人間に似すぎていたためでした。
人の姿を借りても酒好きと暴虐な性格は変わらなかったヤマタノオロチは、あまりの横暴ぶりに玉姫の父親に殺されたとされています。

7歳の伊吹童子も大酒を呑むなどして、ヤマタノオロチの化身と同じ性質を見せていました。
横暴な性質を疎まれ、谷底に捨てられてしまったのです。
どうにか、谷底から生き延びた伊吹童子は、その後、酒呑童子となって悪事を働くようになったと考えられています。

酒呑童子が捨てられた理由については、別の説もあります。
ヤマタノオロチの化身が、玉姫との祝言の夜に、大酒を呑みすぎて正体をあらわしてしまったためというものです。
スサノオノミコトに退治されたときも、酒に酔って失敗していたにも関わらず、同じ過ちを犯してしまったんですね。
正体をあらわした後は、玉姫の父親に切られてしまいます。

しかし、玉姫はすでに身ごもっていて、三十三ヶ月の後に子どもを産み落としました。
生まれたばかりの赤子は、伊吹山に捨てられ、山中の狼やイノシシと共に育ったとされています。
山中に捨てられたため「捨て子童子」と呼ばれるようになりましたが、この名前が訛って「酒呑童子」となったという説です。

九頭龍大神から授けられた子どもという説

九頭龍

酒呑童子は、戸隠山の九頭龍大神から授けられた子どもだという説があります。
越後の国で人の子どもとして生まれましたが、成長した後に鬼となってしまったというものです。
九頭龍大神より授けられ、桃園親王の家臣の子として生まれた子どもは「外道丸」と名付けられました。

成長した後は、国上寺という寺で稚児として働きはじめますが、大酒呑みで寺の者を悩ませていました。
また、絶世の美男子だったため、常に女性から想いを寄せられていたとされています。

モテてはいたものの、女性たちの誘いをすげなく断り、送られてきた恋文を嬉々として燃やすといった非情な一面も持ち合わせていました。
外道丸に想いを寄せながら、恋患いで亡くなってしまった女性もいたほどです。

しかし、女性の怨念は恐ろしいもので、外道丸のもとに宛てた恋文に呪いを残しました。
呪いによって鬼へと変じた外道丸は、酒呑童子となって大江山に住み着いたとされています。
フラれた腹いせに、鬼へと落とされてしまったという説ですね。

また、違う説では、比叡山の稚児として働いていたが、鬼踊りをするために面を被ったところ、鬼の面が外れなくなってしまったというものもあります。
仏道修行では酒は戒められていたにも関わらず、大酒を飲んでいたというので、罰があたったのかもしれません。

生まれながらにして鬼だったという説

酒呑童子

酒呑童子は、生まれながらにして鬼だったという説もあります。
先祖代々、比叡山を所領としてきましたが、伝教大師に一族もろとも追い出されてしまいました。
伝教大師といえば、天台宗の開祖で、比叡山に延暦寺を建立した人物ですね。
寺を建てるためには、もといた鬼たちは邪魔だったのかもしれません。

比叡山から追われた酒呑童子の一族は、嘉祥2年(849年)に、大江山を住処としました。
王威も民の力も、神仏の加護さえも薄れたからこそ叶ったことだとされています。
酒呑童子がいたとされている時代は、平安京が繁栄する反面、人々の暮らしが大きく乱れていた時代でもありました。

鬼の姿を真似ただけの盗賊という説

 

盗賊集団

酒呑童子の生い立ちのなかには、捨て子となってあちこちを放浪するうちに悪事を重ね、盗賊となってしまったというパターンもあります。
こちらのパターンでは、鬼の姿を真似て、賊として活動していたことから、本物の鬼と勘違いされるようになったと伝えられています。

財を奪うだけでなく、婦女子を拉致するなどの悪事で都を混乱させたため、討伐命令がくだされるようになりました。
鬼の姿を真似ることで、盗賊の仕事をやりやすくさせたかったのかもしれませんね。

ドイツ人だったという説

酒呑童子は、じつはドイツ人だったという説も存在します。
確かに、大昔の日本人にとっては、彫りが深く、髪や目の色が異なる西洋人は、鬼のように見えたのかもしれませんね。
丹後の国に漂着したドイツ人が、赤ワインを飲んでいたことから、人の生き血を飲む鬼と解釈されたと考えられています。

ドイツ人がシュタイン・ダッチと名乗っていたことから、その名前が訛って、酒呑童子と呼ばれるようになったのではないかと言われています。
信憑性は薄いのですが、興味深い説ですね。

 

酒呑童子退治の顛末

生い立ちについて、さまざまな説が取りざたされる酒呑童子ですが、悪行を働くようになってから、退治されるまでの顛末は、かなり一貫しています。
基本的に参考にされるのは、『大江山絵詞(おおえやまえことば)』または、『大江山絵巻』と呼ばれる、酒呑童子についての最古の書物ですね。

長徳元年(995年)に、源頼光(みなもとのらいこう)が、藤原保昌(ふじわらのやすまさ)とともに帝の命を受けて、酒呑童子退治をする話です。
このとき、源頼光は、碓井貞光(うすいのさだみつ)卜部季武(うらべのすえたけ)、渡辺綱(わたなべのつな)坂田公時(さかたのきんとき)という、家来の四天王を引き連れていったとされています。

酒呑童子退治の発端

源頼光の木渡り

酒呑童子は、多くの鬼の配下を従え、一条天皇の時代に都で悪事を働いていました。
鬼の頭領たる神通力を駆使して、稲妻のように空をかけ、美しい稚児姿に化けることができたとされています。
人々から財を盗むだけでなく、美しい姫も次々と拐っていきました。

姫君の失踪事件が相次いたことから、高名な陰陽師である安倍晴明に占いを依頼したところ、大江山を根城にした酒呑童子の仕業と判明します。
都を混乱におとしいれたことから、帝より討伐命令が下されました。

その命を受けたのが、武門の名将であった源頼光です。
自慢の四天王と、縁者であった藤原保昌を引き連れて、6人で大江山の鬼退治へと向かいます。
多くの配下を従えた、鬼の頭領の討伐としては、少ない人数ですね。

しかし、四天王のメンバーは、実力者揃いでした。
とくに渡辺綱は、酒呑童子退治以外にも、一条戻り橋での鬼退治など、多くの鬼を退けたことで後世に名を残しています。
また、坂田公時は、5月人形でおなじみの足柄山の金太郎のモチーフとなった人物です。
クマを投げ飛ばすほどの怪力の持ち主で、大江山に赴く途中でも、大木を引き抜き橋の代わりにしたとされています。

神仏の手助けを得る源頼光

住吉明神

大江山の山中に踏み入った源頼光の一行は、三人の翁に出会います。
翁たちは、いかに強者ぞろいでも、大勢の配下を従える鬼に、武士姿のままで戦いを挑んではならないと忠告をします。
武士の姿はやめて、山伏に化けて近づくと良いというのです。

三人の翁は、知恵をかしてくれたばかりでなく、「神便鬼毒酒(しんべんきどくしゅ)」、「打銚子(うちでうし)」、「帽子兜(ほしかぶと)」という三つの宝も授けてくれました。

「神便鬼毒酒」は、鬼に飲ませると空を飛ぶ神通力を封じ、人に飲ませると薬になるとされる酒の名前です。
「打銚子」は、酒を飲ませるための道具で、神代の時代に鬼神相手に用いられたものでした。
古の鬼神をたいらげたとされる打銚子でつぐ酒は、いくら飲んでも尽きることがありません。

「帽子兜」は、正八幡大菩薩が神代の時代に召したもので、かぶるだけで万人の力が発揮できるとされています。
さらに、くろがねの矢を放ち、矛をふりあげられるようになるだけでなく、身体に傷がつかないとされるほどのものでした。

これだけの宝を授けてくれた、三人の翁の正体は、岩清水八幡大神、住吉明神、熊野権現の化身と伝えられています。
源頼光たち一行は、鬼退治へと出向く前に、それぞれの神仏に祈願をしていたのです。
願いに答える形で翁の姿をとり、手助けをしてくれたということですね。
神々の化身に導かれ、酒呑童子の根城まで踏み込んでいきました。

鬼の宴に招かれる源頼光

大江山酒宴の席

三人の翁に導かれた源頼光の一行は、険しい洞窟の中を突き進み、開けた場所へと出ていきます。
翁の姿はそこで消えてしまうのですが、遠くを見ると、血にまみれた布を洗濯している老婆の姿がありました。

鬼の一味かと身構えますが、老婆は、ここは鬼が根城としている場所であるから早く逃げるようにと忠告してきます。
話を聞いてみたところ、老婆は、もとは拐われてきた貴族の妻であったというのです。
鬼に食い殺されることは免れたものの、神通力で死ぬことも許されず、下働きとして働かされていたのです。

この老婆は、書物によっては、若い姫君として扱われることがあります。
どうせ鬼の手から助け出すのであれば、若い娘のほうが受けが良いと考えられたのかもしれません。
源頼光の一行は、鬼退治にきたことを打ち明けて、根城への案内を頼みます。

根城まで案内されると、源頼光は、道に迷った山伏を装って一晩の宿を願い出ます。
都で評判の酒だと嘘をつき、神便鬼毒酒を、宿代の代わりに差し出すほどの狡猾さです。
酒に目がなかった鬼たちは、快く宿を提供し、宴の席を設けるほどの歓待ぶりをみせました。

酒宴の席では、さらった女性たちの血を混ぜた酒や、女性の肉を使った料理が出されます。
源頼光の一行は、これも鬼退治のためと、出された酒や料理に手をつけます。
その様子に安心したのか、酒呑童子も稚児姿で酒宴の席に姿を表しました。

しかし、隙があるかといえば、そうでもありませんでした。
酒呑童子の配下のなかで、最も力を持つ四人の鬼が周りを取り囲んでいます。
源頼光は、翁からもらった神便鬼毒酒を飲ませるために、酒呑童子の杯へと酒を注ぎにいきます。
武門の将として有名な、源頼光の顔を見たことがあるのか、「どこかで見たことがある」と怪しまれますが、酒の旨さによって事なきを得ます。

自らの神通力を封じこめるための酒とは知らず、杯を重ね、すっかり気分をよくした酒呑童子は、身の上話を始めるまでになりました。
それによると、もとは比叡山を根城にしていたのですが、伝教大師に追い出されたうえに、結界を張られてしまったというのです。

比叡山を出てからは、あちらこちらの山を転々としたのですが、最終的には大江山に居着きます。
伝教大師も亡くなり、力のある術者も減ったため、都に出て好き勝手できるようになったというのです。
大酒を呑み、自慢話を繰り広げた酒呑童子は、すっかり酔いがまわってしまい、寝所へと向かいました。

酒呑童子を討ち取る源頼光

酒呑童子退治

宴の席でしこたま酒を飲んだ酒呑童子の配下も、酔いつぶれて動けなくなりました。
ついに討ち取る機会が訪れたと知った源頼光は、四天王たちに、配下の討伐を命じます。
酔った鬼たちは、茨木童子を除いて、皆殺しにされてしまいます。

源頼光は、一人寝所へと向かい、神通力を失い眠りこける酒呑童子をみつけます。
稚児姿から、巨大な鬼の姿へと変じていましたが、源家に伝わる宝刀髭切は、なんなく首をはねてしまいます。
しかし、神通力を封じられたとはいえ、鬼の頭領なだけはありました。酒呑童子は首だけとなっても生きており、源頼光の頭部に噛みつきます。

思わぬ反撃にあった源頼光ですが、翁にもらった帽子兜が守ってくれました。
鬼の牙は兜に阻まれ、さすがの酒呑童子も力尽きてしまいました。

死ぬ間際に、鬼はだまし討ちなどの卑怯な手は使わないという意味の「鬼に横道なし」という言葉を残して息絶えたのです。
人と鬼では力の差があったとはいえ、毒を使っただまし討ちという方法は、確かに褒められたものではないのかもしれません。

無事に大江山の鬼退治を成し遂げた、源頼光の一行は、さらわれた女性たちを救出して都へと帰還します。
帰る途中で、洗濯をしていた老婆の姿も探しましたが、川辺に血のついた布を握りしめた人骨が横たわっているのみでした。

 

酒呑童子退治のその後

鬼退治を成し遂げた源頼光の一行は、討伐の証明のために、酒呑童子の首を都に持ち帰らなければなりませんでした。
大江山を下りて、都の手前である老ノ坂にたどり着いたときのことです。
道端で休憩していた一行の前に、地蔵尊が姿をあらわしました。

そして、酒呑童子の首を指して「鬼の首のような不浄のものを、都に持ち込んではならない」と忠告してきます。
不思議なことに、酒呑童子の首は、根が生えたように、その場から動かなくなったと言います。

討伐を証明するために、力自慢の坂田公時が、なんとか動かして都に持ち込もうとしましたが、ビクともしません。
やむをえず、老ノ坂の近くに鬼の首を埋葬して、首塚をたてることになりました。
この首塚は「首塚大明神」という名前で、現在も京都市の西京区に残されています。

首塚大明神

首塚大明神には、首を切り落とされた酒呑童子が、いまわのきわに「今までの罪を悔い改めて、これより先は、首から上の病を持つ人々を助けたい」と願ったという言い伝えがあります。
そのため、首より上の病気に悩む人たちにとっては、霊験あらたかな場所だとして、全国から参拝客が集まっています。

ちなみに、新潟県の燕市にも「酒呑童子神社」という場所があります。
こちらは、恋文に残された女性の怨念を受け、鬼に変じたことから神社で祀られるようになったものです。
面白いことに、現代では縁結びのパワースポットとして有名になっています。

 

酒呑童子の首を落とした刀は

酒呑童子の首を落とした刀ですが「髭切(ひげきり)」であったという説と「童子切安綱(どうじきりやすつな)」であったという説があります。

改名が続いた「髭切」

羅生門の鬼髭切は、源氏の祖である源満仲(みなもとのみつなか)の愛刀だったとされる刀です。
源氏の宝刀として受け継がれていたため、源頼光が酒呑童子退治で使用したと考えられています。
髭切を鍛えた鍛冶師は、唐国の出身であること以外には、よく知られていません。
髭切の名前の由来は、罪人を試し切りにした際に、髭まで切れたことにあると言われています。

髭切は、源頼光の四天王の一人である渡辺綱が、一条戻り橋で鬼の腕を切り落とすために用いられたとも伝えられています。
興味深いことに、このとき渡辺綱を襲ったのは、酒呑童子の根城から唯一人逃げだすことができた、茨木童子でした。
一条戻り橋での出来事をきっかけに、「髭切」は「鬼切(おにきり)」という名前でも呼ばれるようになりました。

源氏の宝刀である髭切は、その後もたびたび銘を変えられたと言われています。
源為義(みなもとのためよし)の時代には、夜に獅子のような声で吠えたため「獅子ノ子」という銘となりました。

また、髭切の兄弟刀とされる「膝丸(ひざまる)」には、代刀として作られた「小鳥」という刀がありました。
「獅子ノ子」よりも二分ほど長いものでしたが、あるとき二本を並べて置いておいたところ、人も触れないのにいきなり倒れてきました。
調べてみると、「小鳥」の目貫が二分ほど切られており、「獅子ノ子」と同じ長さになっていました。「小鳥」を切ったのは「獅子ノ子」と考えられ、「友切(ともきり)」という銘に改められます。

しかし、源頼朝の代になると、敗戦が続きました。
源氏の宝刀「友切」を持っているのであれば、負けるはずがないのにと嘆いていると、八幡大菩薩から「友切の銘のせいで力を失っている、髭切という銘に戻せば力も戻る」というお告げをもらいます。
改名に改名を重ねた髭切ですが、最終的にはもとの銘に落ち着きました。

天下五剣の一つ「童子切安綱」

童子切安綱

童子切安綱(どうじきりやすつな)は、天下五剣の一つに数えられるほどの名刀です。
平安京の刀工である、大原安綱に鍛えられたとされています。
源頼光が、酒呑童子退治で用いたという伝承があることから「童子切安綱」の銘が与えられたと言われています。
似たような逸話と持っていることから、「髭切」と混同されやすい刀です。

ただし、制作された年代を鑑定したところ、酒呑童子退治の時代よりも後に鍛えられたことが判明しています。
それでも、国宝にも指定されているほどの、見事な刀であることには変わりありません。
現在は、東京国立博物館に保管されています。

 

酒呑童子|絵巻物に登場する酒好きが命取りとなった鬼 まとめ

伝統芸能から、アニメなどのサブカルチャーまで、人気の題材となっている酒呑童子。
さまざまな説の生い立ちを持ち、だまし討ちによる壮絶な最後を遂げたことが、製作者の創作意欲を刺激するのではないでしょうか。
御伽草子などでは敵役として憎まれていましたが、現代のサブカルチャーでは、むしろダークヒーローのような扱いとなっているようです。
時を超えて人を魅了するのも、酒呑童子の持つ、神通力の一つだったのかもしれませんね。

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