酒豪列伝~横綱大鵬~同期の桜「王貞治と張本勲」

第48代横綱である大鵬幸喜は、昭和の大横綱と呼ばれた伝説級の力士です。

幕内優勝は32回、連勝記録は45、6場所連続優勝を2度成し遂げ、全勝優勝も8回記録するなど、まさに昭和30年代の高度経済成長期の日本を象徴する存在でした。

身長187cm、体重150kgの恵まれた体躯に、色白で端正なマスクと圧倒的な強さで「巨人、大鵬、卵焼き」というフレーズがはやるほど人気がありました。

 

横綱大鵬

横綱大鵬の本名は納谷幸喜(なやこうき)といい、樺太(現ロシア領サハリン)の敷香郡敷香町にて生まれ、北海道川上郡弟子屈町(てしかがちょう)川湯温泉がその出身地です。

ウクライナ人の父と日本人の母の間に1940年5月29日に三男として誕生しました。

戦後、混乱のさなかに母と兄、そして姉と共に引き揚げ船で北海道に到着し、そこで暮らします。

相撲との出会いは、弟子屈町の定時制高校に通いながら、国有林の管理人として働いていた彼を二所ノ関部屋が1956年にスカウトしたことに始まります。

その年の九月場所で初土俵を踏んだ大鵬は、1960年の一月場所で新入幕を果たし、その後は勝ちに勝ちまくり、新入幕からわずか1年後の1961年の一月場所で大関へと昇進します。

この年の九月場所で3回目の優勝をした後、柏戸とともに最高位の横綱へと昇進を果たしました。

酒豪大鵬と王貞治

この大横綱大鵬は、酒豪としても名を馳せています。

その飲みっぷりは凄まじく、現役時代には4時間程で5升を空け、その翌日の朝稽古にも出たという逸話さえあります。

塩辛いものも大好物で、肴として大ぶりの明太子を2腹も3腹も食べながら、時には1晩で1斗飲んだこともあると言われています。

たとえ場所中であってもお酒の量は変わらなかったようで、こんな話も伝わっています。

とある場所の終盤に入り、明け方まで酒を飲んでいた大鵬に、心配した付き人が「横綱、きょうは大関戦ですが」と声をかけたところ、「どうしておれが大関とやるのに寝なきゃいけないんだ」と言い放ったということです。

横綱大鵬と同い年の親友に、読売ジャイアンツの王貞治がいます。

王貞治といえば通算本塁打868本を記録した世界のホームラン王であり、やはり当時のスーパースターのひとりでした。

大鵬と王貞治が一緒に飲んだある日、酔いつぶれた王貞治がひと眠りして起きたところ、大鵬はその間も変わらないペースで黙々と酒を飲み続けていた、というのは有名な話です。

 

酒豪大鵬と張本勲、そして若乃花

プロ野球選手の張本勲も、大鵬と王貞治の同期です。

張本勲は、3000安打、500本塁打、300盗塁を達成した強打者として東映フライヤーズ、読売ジャイアンツ、ロッテ・オリオンズなどで活躍した有名な選手です。

王貞治と張本勲はOH砲と名付けられた名コンビでもありました。

同期である大鵬と王貞治と張本勲の3人は、これまた人気のプロレスラーであった力道山に飲みに誘われることがあったようです。

飲みの席には必ず初代若乃花がおり、力道山と若乃花が年上てあったことから、若いもの同士で飲めということで、この3人で飲むことになりました。

後に張本勲が語ったところによると、店のおかみさんが冷やの日本酒の一升瓶を持ってきたところ、なんと大鵬はこの一升瓶の半分を一気に飲み、刺身を数枚つまんでから残り半分を一気に飲み干してしまったとのことです。

あんなに酒が強い人は見たことがないと張本勲が感じたのも無理のない話です。

このペースで飲むわけですから、一日に1斗飲むという話にも信憑性が感じられます。

酒豪列伝~横綱大鵬 まとめ

横綱大鵬は1971年に現役を引退し、一代年寄の「大鵬親方」として多くの関取を育てました。

1977年には30代の若さで脳梗塞を患い、左半身が麻痺してしまいます。

やはり、あまりに大酒呑みであることがその一因となってしまったのかもしれません。

2013年1月13日に死去、最後の公職は相撲博物館の館長でした。

戦後最強の力士とも言われ、今なおその力量と品格は横綱の鑑とも言われる大鵬は、お酒においても横綱級だったのです。

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