猩猩は猿でも鳥類でもない!?~民間信仰にみる酒と魔よけの大人形~

猩猩(しょうじょう)は「猩々」とも書き、古典にたびたび登場する架空の動物です。

もともとは中国の想像上の動物であり、体は人間に似ているものの朱色の長い体毛に覆われており、顔は人間に、声は子供の泣き声に似ていて、人間の言葉を理解する上、お酒好きだとされています。

中国において3世紀に書かれたとされる「礼記」(曲礼の篇)の中では、こう記されています。

鸚鵡能く言へども飛ぶ鳥を離れず。(おうむは上手に話すが、結局は飛ぶ鳥である)

猩々能く言へども禽獣を離れず。(猩々も上手に話すが、しょせんはただの動物である)

今人にして礼無くんば、能く言ふと雖も亦禽獣の心にあらずや。(人であっても、礼節が無ければ、どんなにいくら弁舌が上手であっても、その心根は結局のところ動物レベルである)

この記述からは、猩々は人の言葉が分かる動物だとされています。

 

中国の文献に度々登場する猩猩

中国の文献である「唐国史補」の中では、猩猩の好物である酒と履物を利用して猩猩を捕まえることに成功したという記述があります。

明の時代の「本草綱目」においては猩猩に関する記載はかなり増え、「交趾の熱国に生息し、毛色は黄色で声は子供のようだが、時として犬がほえるように振る舞い、人間のような顔と足を持ち、人間の言葉を理解し、酒を好む動物である」とされています。

他にも、3世紀より前に書かれた「山海経」にも猩猩は登場しており、中国においてもかなり古くから、猩猩について語られていたことが分かります。

ただ、中国においては猩猩はあくまで単なる動物として捉えられており、黄色の毛の生き物であるとか豚のようなものであるとか多岐にわたる表現がなされています。

 

日本での猩猩の記述 ~猩猩は鳥類だったのか!?~

一方、日本においては千数百年の間、ほぼ一貫して猩猩は酒好きで赤ら顔であり、人の言葉を理解する猿に似た動物として描かれています。

猩猩の話がいつ日本に伝えられたのかについてはあまり明確ではありませんが、承平(931~938年)の頃に書かれた「和名類聚抄」には、猩猩についての記載がすでに載せられています。

仏教では「十誦律」の第1巻で動物をその足で分類し、二足・四足・多足・無足と分けていますが、そこ鳥と猩猩と人間を二足歩行と規定しています。

また、「十誦律」の第19巻では、猩猩や猿を孔雀や鸚鵡(おうむ)などの鳥と一緒にして、同じ分類に属すると定めています。

興味深いことに、古くは日本でも猿のことを「このみどり」(木の実を取る様子から)とか「呼子鳥」(よぶこどり)などと、まるで鳥の仲間であるかのように呼ぶことがありました。

 

疱瘡神 ~魔よけの民間信仰~

現代のように医学が発達していない昔は、病気を治したり、疫病の流行を止めたりしようとして、呪術的な方法が用いられていました。

疫病の中でも特に疱瘡(天然痘)は、頻繁に流行したため一般庶民には非常に恐れられていました。

当時、この病気は「疱瘡神」という神ががもたらすものと考えられていましたが、疱瘡神は赤い色が嫌いであるとも信じられていました。

そのため疱瘡の患者が出ると、疱瘡神を追い払うために病人の身の回りをすべて赤い色の物で飾ったり覆ったりするという習慣があったようです。

また、疱瘡から子供を守ろうと、枕元に赤い人形を置いたり、赤絵と呼ばれる赤一色に刷られた錦絵を飾ったりもしました。

このような民間信仰を土台として、赤ら顔で知られる猩猩がいつの間にか「疱瘡の魔よけの神様」として信仰されるようになっていったということです。

単に顔が赤いというだけで神様に祀り上げられてしまったということになります。

 

能の演目として定着した猩猩

近代では、猩猩は人に福をもたらす神の化身であるというイメージが定着してゆきます。

これには、能の演目として有名な五番目物の曲名「猩猩」が大きな役割を果たしたと考えられています。

簡単にその物語を説明すると、こんな感じになります。

むかしむかし、潯陽の傍らの金山というところに、高風という名前のたいへん親孝行な若者が住んでいました。

高風はある日夢の中で「市でお酒を売ればお金持ちになれる」お告げを受け、酒売りの仕事を始めます。

店はたいへん繁盛し、高風はだんだんと裕福になります。

高風の店には不思議な客が毎日やってきて、いつも酒を飲んでは帰ってゆくのですが、いくら飲んでも顔色が変わりません。

それを不思議に思った高風が、その客に名前を尋ねると「自分は海中に住む猩々である」と言っていなくなってしまいます。

これに驚いた高風が川畔で酒壷を供え、一晩中待っていると、突然、くだんの猩々が現れます。

猩々は高風といっしょに酒を飲み、高風の親孝行ぶりを褒めそやします。

少し酔いがまわったところで舞を舞い、いくら汲んでもなくならない不思議な酒壷を彼に与えて、再び海の中へと帰って行行ったということです。

能が本格的に楽しまれるようになったのは室町時代の後期でしたが、そのころといえば戦乱の世の中であり、能においても死者の亡霊が出てくるような暗い話が演じられることが多かった中で、この「猩猩」は真っ赤な能装束で飾った猩猩が酒に浮かれながら舞い謡う、明るいストーリーとなっており、庶民にも親しまれたと考えられます。

江戸時代になると、能の「謡」(うたい)は庶民の間にも流行し、猩猩といえば「赤ら顔をした陽気な酒の神様で、親孝行のシンボル」というイメージがすっかり定着していたようです。

やがては各地のお祭りの題材としても「猩猩」が取り入れられるようになってゆきました。

 

鳴海村の猩猩大人形 ~民間の祭りに取り入れられた猩猩~

名古屋南部の猩猩大人形は、能の猩猩のイメージから派生した猩猩人形を基にして、様々な要素を加えつつ現在の形になりました。

猩猩大人形に関するもっとも古い文献は、宝暦7年(1757年)の『尾陽村々祭礼集』で、今から250年以上前のものです。

この文献の鳴海村の部分に、お祭りの行列の中に猩猩が並んでいたことが記述されています。

行列の構成などから推測してこの猩猩は、現在の鳴海町の下中町内(旧鳴海村中嶋町)が保存している「アタラシ」という猩猩ではないかと考えられています。

この「アタラシ」は、今でも鳴海の祭礼のときには裃に衣替えし、神輿のすぐ後ろを歩く特別な猩猩(カミサマショウジョウ)の役割を担っています。

『尾陽村々祭礼集』にも登場する江戸時代中期ごろからのしきたりが、今日まで生き残っているのでしょう。

 

高力猿猴庵の研究 ~鳴海祭礼図~

安永7年(1778年)に高力猿猴庵(本名は高力種信)という人物が鳴海八幡宮の祭礼を訪れた際に、その祭りの様子を絵付きで詳細に記録した『鳴海祭礼図』という文献も残されています。

この中には行列の様子などもかなりしっかりと描かれており、その説明文には

「猩々、高さ七尺斗り。もめんしょうぞく、髪は染苧、脇に息出しあり」

とあり、現在と材料や構造も同じものではないかと思われます。

その衣装も木綿の小袖で、肩衣や袴などは着ていないようです。

恐らくこの猩猩も、上記の「アタラシ」という猩猩と同じものではないかと考えられています。

 

高力猿猴庵の研究 ~尾張年中行事絵抄

文政13年(1830年)のこと、高力猿猴庵はその晩年に『尾張年中行事絵抄』という文献を書きますが、その第11巻の中で再び中嶋町の猩猩について記述しています。

「此ねりものは、其年々に思ひつくことなれば、姿定まりなし。但し、中嶋町の猩々、作りものにて、長七、八尺ばかり。此内へ人はいりてあゆみ行き、は例年定まり出ずる」

この記述には「ねりもの」が出てきますが、これは行列で歩くときに付随して作られる造作物のことで、小さな山車や傘鉾などのことですが、姿や形は一定ではないとされていることから、これは梵天祭りに出されるような張りぼて状の造作物のことだと考えられています。

竹や紙で作った張子のような猩猩もあったということのようです。

他にも、有名な『尾張名所図絵』の補遺編にあたる、嘉永6年(1853年)に書かれた『小治田之真清水』(編者は岡田啓、絵は小田切春江)の巻之三の中にも、上記の猩々と同じものと思われる絵が描かれています。

 

猩猩人形の二つの役割 ~酒の神様~

現在の鳴海八幡宮の礼大祭における猩猩人形にはふたつの役割があります。

ひとつは、神輿行列への参列です。

猩猩人形は行列の先頭に立つことが多いものの、神輿や山車の前後、あるいはしんがり(最後尾)を受け持つ町内もあります。

猩猩人形は普段「どてら」と呼ばれる綿入れ半纏を着ていますが、このような祭礼行列に参列するときだけは、裃に着替えることも多くなされています。

これは最も伝統的な役割ですが、江戸中期移行に流行した練物行列の影響などもあり、陽気で酒好きな神様という祭りのキャラクターとしてぴったりの猩猩人形はどんどん普及しました。

さらに付け加えるなら、名古屋南部、特に緑区から東海市北部にかけては、江戸時代から酒造りの盛んな地域でした。

このような土壌を考慮すれば、「お酒の神様」が祭りに出てくることには何の違和感もありません。

 

猩猩人形の二つの役割 ~魔よけの神様~

猩猩人形のもうひとつの役割は、一風変わっています。

子供たちを追い掛け、そのお尻を手の団扇で叩くのです。

祭りの際、子供たちは「猩猩の馬鹿やーい」などと囃し立てて、猩猩をつついたりけったり、おもちゃの刀で切りつけたり、銀玉鉄砲で撃ったりして挑発します。

すると、猩猩は急に振り向いて子供たちを追いかけ、団扇や竹の棒で子供たちのお尻を叩きます。

実は、こうして猩猩に叩かれた子供は1年間病気にならないという伝承があり、そのため祭礼の行列を先導するような神様に対して不敬とも思えることを許しているのです。

これにはやはり、猩々は疱瘡神の魔よけの神様という昔からの言い伝えが関係しているのでしょう。

 

人間を食べて、人間を倒すための力がほしい

最後はおまけですが、ジブリのアニメーション映画『もののけ姫』にも猩猩が登場しています。

見た目はオランウータン(マレー語で「森の人」の意)のような感じで、人間を嫌いアシタカやサンに対し石を投げて攻撃をしてきます。

その一方で、森を蘇らせようと木を植え続ける姿も描かれています。

「もののけ姫」に出てくる森の生物たちや守り神たちは、猩猩も含めて高い知能を持ち、人間と言葉を交わすことができます。

映画の中では猩々は人の言葉を話し、くぐもった声で「人間を食べて、人間を倒すための力がほしい」とか「お前たちが破滅をつれてきた」というようなことを語っているようです。

森の賢者と言われるにしては乱暴な言葉ですが、自然を荒らす人々への強い憎しみがその言葉からは感じられます。

 

意外にも身近だった猩猩

猩猩は、実は猿のことでもあります。

実際、和名ではチンパンジーのことを「黒猩々」、ゴリラのことを「大猩々」と呼ぶようです。

真っ赤な能装束で飾った猩猩が酒に浮かれながら舞い謡う能の印象から、大酒飲みや、赤や緋色の物を指して「猩猩」と表現することもあります。

猩猩は伝説上の生き物とされていますが、意外にもわたしたちの生活の身近なところで息づいているとも言えるのではないでしょうか。

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう