横山大観(1868~1958年)は、日本画の画家として非常に有名です。
中でも、富士山をモチーフに描いた数々の名画で良く知られています。
横山大観はけた外れの酒豪でもあり、美術家とはまた別の一面も持ち合わせていました。
日本画の巨匠 横山大観
横山大観の本名は横山秀麿(よこやまひでまろ)といい、茨城県水戸市の出身です。
「朦朧体」(もうろうたい)と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した近代日本画壇の巨匠です。
後に、師事した岡倉天心らと共に日本美術院を設立しています。
帝国美術院の会員にも選任されています。
第一回文化勲章の受章者であり、その死後には正三位勲一等旭日大綬章が贈られています。
酒豪 横山大観と岡倉天心
この横山大観ですが、大の酒好きで1日に二升三合のお酒を飲んでいたことでも知られています。
その晩年、80歳を過ぎても毎日一升は飲んでいたといいますから相当なものです。
ところが、若い頃はお酒を全く飲めず、お猪口で数杯飲んだだけでもう真っ赤になるほどだったといいます。
そんな下戸の彼がお酒に強くなったのは師である岡倉天心の影響のようです。
岡倉天心は当時、美術学校の校長でしたが、お酒が飲めなかった横山大観に「一升酒ぐらい飲めなければ駄目だ」と言い放ち、これを契機として徐々にお酒に強くなっていったということです。
※写真は岡倉天心
酒徒 横山大観と銘酒 「醉心」
こうして大変な酒豪となった横山大観の主食はお酒で、お米のご飯は朝に食べるお茶碗軽く一杯程度だけで、1日のカロリーはほぼすべてお酒で賄っていたと言われています。
そんな横山大観ですが、お酒を飲んで筆を執るということは決してありませんでした。
自分は大酒呑みではなく、ただお酒を愛しているだけの酒徒であるのだと語っています。
横山大観が最も好んだお酒が、広島県三原市にある山根本店が醸造する「醉心」という酒銘のお酒でした。
あることがきっかけで、山根本店の三代目の山根薫(やまねかおる)社長と横山大観との間には深いつながりが生まれます。
それは昭和初期の頃のことです。
「醉心」を造る山根本店の東京販売店にいつも酒を買いに来る上品な女性がいて、気になった店員が尋ねてみると、それは横山大観の奥様でした。
その話を聞いて興味をそそられた山根薫社長は、横山大観の自宅に出向くことにします。
名人は名人を知るという言葉通り、このふたりはたちまち意気投合します。
山根薫社長の語る酒造りに関する話に、横山大観は大いに共鳴し「酒造りも、絵を描くのも芸術だ」と述べたといいます。
これに感動した山根薫社長は、横山大観に対してその一生の間の飲み分を持つと約束しました。
この時以来、横山大観は毎年1枚ずつ作品を「醉心」に寄贈するようになります。
そしてこの関係は、横山大観が昭和33年(1958年)に亡くなるまで続きます。
「醉心」は横山大観の生活にあまりに密着していたため、特に戦争が激化してからの「醉心」の輸送を大変に気にしたようで、当時の運輸大臣であった五島慶太にそのことを依頼するほどでした。
横山大観が亡くなる2年ほど前に病状が悪化して重体となり、薬や水さえ受け付けなくなくなってしまった時でも、「醉心」だけはそののどを通ったといいます。
その翌日には果物の汁や吸物などが飲めるようになり、一週間後にはお粥を食べられるほどに回復したという記録が残されています。
醉心山根本店 大観記念館
〒723-0011 広島県三原市東町1-5-58
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酒豪列伝~横山大観~日に二升三合を飲む日本画の巨匠!まとめ
近代日本画壇の巨匠である横山大観の日常には、広島の清酒「醉心」がいつも寄り添っていました。
横山大観が亡くなるまで毎年1枚ずつ寄贈した作品は、現在「大観記念館」に収蔵されており、3年に1度だけ文化の日に一般公開されています。