福島正則といえば、加藤清正などと共に豊臣秀吉の側近の中でも出世頭として知られる有名な武将です。
福島正則の出自については、あまりよくわかっていません。
尾張の桶屋や大工の子とも、北条氏康の股肱の臣であった北条綱成(旧姓福島氏)の元で養育されたとも言われています。
いずれにしても、勇猛な武将に成長した福島正則は、天正10年(1582年)の山崎の戦いで、勝龍寺城の攻撃において大きな軍功をあげ、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは一番槍・一番首として敵将の拝郷家嘉を討ち取るなど、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出した存在として知られるようになりました。
後に安芸広島の大名となり、統制のとれた政治を行なって単に勇猛なだけの武将ではなかったことを証明しています。
そんな福島正則ですが、たいへんな酒豪で酒が絡んだ逸話がたくさん残されており、それらのエピソードには福島正則の性格がよく表われています。
酒の勢いで首を斬る
ある日のこと、朝から酒を飲んで上機嫌であった福島正則でしたが、ある家臣の諫言が気に障って口論となり、酒の勢いでその家臣を退出させてから切腹させその首を持ってくるようにと命じてしまいます。
そのことを知った家臣は即切腹して果てますが、酒の酔いが醒めた福島正則は何事もなかったかのように、その切腹した家臣の名を呼んだのです。
驚いた周りの家臣は、その家臣は切腹して果てたと告げますが、福島正則は全く信じません。
やがてその首が福島正則の前に持ってこられると、それを見るやいなや号泣して詫び続けたといいます。
酒の勢いで、信頼できる有能な人材をみすみす失ってしまったのです。
昌泉院に追われる福島正則
別の時には、酒をたっぷり飲んでこっそり妾のもとへと忍び込んだところ、それが継室である昌泉院にばれてしまいます。
この昌泉院という女性、なかなか豪胆で、薙刀を振り回しながら福島正則を追いかけ、問い詰めました。
賤ヶ岳の七本槍の筆頭、戦場では臆したことはなかった福島正則でしたが、この時ばかりは真剣な顔で詫びながら逃げ回ったといいます。
福島正則の人情味
福島正則には、堀尾忠氏の家臣で松田左近という名の仲のいい飲み友達がいました。
堀尾忠氏が伏見城の豊臣秀吉にご機嫌伺いに出向いた時のこと、松田左近にぜひ会いたいと、福島正則は堀尾忠氏の下城を城の大手門のところで待ち受けていました。
ところが松田左近は一行にはおらず、不思議に思って堀尾忠氏に事情を聞くと、松田左近は病のために大坂で静養中であるということでした。
それを聞いた福島正則はいてもたってもいられず、供も連れずに単騎大坂へと馬を飛ばします。
松田左近は驚きますが、大変喜び、病といってもちょっとした怪我であったことから、福島正則と飲もうとして家来に酒をたっぷり求めてくるように命じます。
しかし福島正則は、病み上がりでたくさん飲んでは体に悪いと、一椀ずつの酒をふたりでうまそうに飲んで語り合ったといいます。
福島正則の人情肌なところがよく分かる逸話です。
宇喜多秀家に酒を贈る
時が経って徳川の天下となり、戦乱の世も終わりを告げた頃、安芸広島から江戸の将軍家へ献上する酒を積んだ船が悪天候のために八丈島付近まで南下してしまいました。
その船に乗っていた福島正則の家来たちは、よぼよぼの老人が船に向かって手を振っていることに気づきます。
何だろうと思って島に船を付けるとその老人が寄ってきますが、この老人、なんと宇喜多秀家という人物だったのです。
宇喜多秀家といえばかつては豊臣政権下で五大老を務め、関ヶ原の合戦では石田三成について、奮戦した武将でありました。
八丈島に流され、すっかり老人になっていた宇喜多秀家が語るには、船に「備後三原の酒献上」の旗が翻っているのを見て思わず手を振ってしまったとのこと。
哀れに思った福島家の武士たちは、将軍家へ献上する酒の中から一樽を宇喜多秀家のために置いていくことにします。
大変喜んだ宇喜多秀家は何度も何度も礼を言い、一首したためて福島正則にことづけてもらうように頼みます。
後に家臣からこのことを聞いた福島正則は涙ぐみながら、宇喜多秀家へ酒を差し上げたことに対して礼を述べ、家臣に深々と頭を下げたといいます。
かつては同じ主君に仕え、後に関が原では敵として戦ったことを思い出し、感じるところがあったのでしょう。
酒に飲まれる福島正則
他にも、母里太兵衛に天下三名槍のひとつ「日本号」を呑み取られた話は今でも「黒田節」の中に歌われるなどよく知られた逸話です。
福島正則は酒豪でしたが、どうも酒に飲まれるタイプの人だったのかもしれません。
戦場ではあの本多忠勝さえ一目置いたといわれるほどの武将でしたが、心根は優しく子供っぽささえ感じさせる性格や、愛情をもって家臣に接していたことから、家臣からはたいへん慕われており、福島家は一致団結していました。
後に福島正則は広島城を無届けで修復した罪により、安芸・備後50万石は没収され、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5000石(高井野藩)へと改易されることになってしまいます。
その後の福島正則の酒に関する記録は残されていませんが、新田開発や治水工事などで功績を残しています。
そして改易になって5年後、福島正則は64歳でその生涯を終えたのでした。