酒豪列伝~山内容堂~剣菱を愛し鯨海酔侯と呼ばれた大政奉還の要人

山内容堂(やまのうちようどう)は、坂本竜馬の脱藩を許した人物であり、また歴史的な大偉業である大政奉還の建白を推進した人物として非常に有名です。

時代小説などにもよく取り上げられており、代表的なものに山内容堂の政治上の立ち回りを見事に描いた、司馬遼太郎の「酔って候」があります。

この題名からも、山内容堂がお酒をこよなく愛する人であったことがうかがえます。

 

山内容堂

山内容堂は、土佐藩の10代藩主であった山内豊策(やまのうちとよかず)の五男、豊著(とよあきら)の子として、追手邸(お城のすぐ近くの追手筋の周辺)で誕生しました。

その母は豊著の側室で、下級武士であった下士平石氏の娘でした。

後に頭脳明晰な人物として四賢侯の一人と言われるほど有名になる山内容堂ですが、青年時代の頃はあまり勉学には励まず、お酒ばかり飲んでいたと言われています。

それでも、土佐藩の13代と14代の藩主があいついで急死してしまったことで、嘉永1年(1848年)に土佐藩の15代藩主となってからは、これまでのことを反省して読書を好むようになりました。

ちなみにこの容堂という名は隠居してからの名で、元服後から隠居までは山内豊信(やまのうちとよしげ)という名を用いていました。

 

鯨海酔侯と勝海舟

山内容堂は「鯨海酔侯」と名乗っていたことでも知られ、その豪快な飲みっぷりは有名でした。

「鯨海酔侯」の意味は「鯨のごとく酒をのむ殿様」ということで、その酒量たるや相当なものであったようです。

「鯨海酔侯」を有名にした一つのエピソードがあります。

これは、文久三年(1863年)の1月15日に、伊豆の下田にあった宝福寺において勝海舟と会談を行なった際に坂本龍馬の脱藩を許した時の話です。

この時、勝海舟は坂本龍馬の脱藩を許してもらい、それと合わせて土佐藩士を海軍塾に預かることの承認を受けることになりますが、山内容堂がいつものように酒に酔っていたため、口先だけの許可では心もとないと考え、証として一筆書いてほしいと頼みました。

すると山内容堂は勝海舟に対し酒を入れた瓢箪を渡し、まず1杯飲んでからでなければ返事はしないと言います。

勝海舟がその酒を飲むと、山内容堂は大笑いし、やはり口先だけで返事をします。

勝海舟はあきらめずに食い下がり、山内容堂は酔っているのでその言葉を信じ難いと伝えます。

すると今度は朱の大杯に満たされた酒を飲むよう勝海舟に勧めます。

実は勝海舟はお酒が飲めない下戸であったのですが、ためらいなくその大杯を飲み干します。

その覚悟を見た山内容堂は、かたわらの紙に瓢箪を描き、その中央に筆で「歳酔(にふ)、三百六十回、鯨海酔候(げいかいすいこう)と署名をし、それを勝海舟に渡したのです。

一年中酔っ払っている殿様という意味の署名でしたが、たいへん有名な言葉となりました。

 

酒の過ちを犯す

山内容堂は頭脳明晰な人物として四賢侯の一人にも数えられており、学問に秀で時勢を読む能力や政治の才能も非凡なものを有していました。

それでもやはりそのお酒が、大事なところでの失敗につながることもありました。

徳川慶喜の大政奉還の後も、薩摩藩と岩倉具視によって武力討幕の計画が着々と進行していました。

そして慶応3年12月9日のこと、小御所会議が開催されましたが、この会議では徳川慶喜の官位を辞任することと領地を朝廷に返上することが決定されようとしていました。

この会議には、岩倉具視ら討幕派の面々が連なっていましたが、山内容堂もそこに出席していました。

もちろん山内容堂は、前日から酒を浴びるほど飲んでいて酔っぱらった状態での参加です。

会議の趨勢は討幕派の思い通りに進み、徳川慶喜の辞官納地が決定されようとしていましたが、この状況に山内容堂は反発します。

朝廷を中心とした政治が可能になったのは、徳川慶喜の大政奉還の決断があってのことなのに、その徳川だけが領地を返上するのはおかしい、というわけです。

確かにこの主張には理があり、会議は紛糾します。

ところが、山内容堂が議論の最中に言い放った「幼冲(ようちゅう)の天子を擁し奉りて、政権をほしいままにせんとは」という言葉が、岩倉具視に付け入る隙を与えてしまいます。

これは天皇を子ども扱いする不敬な言葉であり、まさに酒の過ちといったところでした。

結局、会議は討幕派の狙い通りに進んで閉会することになってしまったのです。

 

山内容堂と剣菱

そんな山内容堂が好んで飲んでいたのは「剣菱」でした。

山内容堂の剣菱愛は相当なもので、「剣菱にあらずんば即ち飲むべからず」とか、剣菱は何物にも代えがたい宝であり、その印の輝きは北斗七星よりもまばゆく感じられるなどと述べています。

山内容堂が描いた剣菱の酒樽の絵も残されています。

山内容堂がこれほど剣菱を愛した理由のひとつは、江戸時代後期の思想家また風流人、漢詩人として高名な頼山陽の存在がありました。

この頼山陽が「剣菱」を絶賛したことで、山内容堂もまた剣菱に傾倒していったようです。

→剣菱~忠臣蔵、頼山陽、山内容堂など日本酒の代名詞として人々に愛された丹醸のしるし~

 

日本酒を愛した山内容堂

さらに山内容堂は酒の入った瓢箪をいつも身に着けていましたが、これは頼山陽の真似であったと言われています。

時代が移り替わり、明治の世になっても、山内容堂の酒量は衰えを知りませんでした。

毎日、浴びるように酒を飲み続けたその習慣のためでしょうか、山内容堂は明治5年に46歳という若さで脳溢血のためにこの世を去りました。

昨日醉橋南 今日醉橋北
(昨日は橋南に酔ひ 今日は橋北に酔ふ)

有酒可飮吾可醉 層樓傑閣在橋側
(酒在り飲む可し吾酔ふ可し 層楼傑閣橋側に在り)

家鄕萬里面南洋 決眦空濶碧茫茫
(家郷万里南洋に面す 眦を決すれば空濶碧茫々)

唯見怒濤觸巖腹 壯觀卻無此風光
(唯見る怒濤の巌腹に触るるを 壮観却って此の風光無し)

顧盻呼酒杯已至 快哉痛飮極放恣
(顧みて酒を呼べば杯己に至る 快なる哉痛飲放恣を極む)

誰言君子修德行 世上不解醉人意
(誰か言ふ君子は徳を修むと 世上解せず酔人の意)

欲還欄前燈猶明 橋北橋南盡絃聲
(還らんと欲すれば欄干の灯なほ明らかに 橋北橋南ことごとく絃声)

彼の詠んだ漢詩には、お酒に対する愛とその豊かな感性が見事に表現されています。

 

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