酒豪列伝~山科言継~戦国最強の営業マンに学べ!織田家と今川家

山科言継(やましなときつぐ)は永正四年(1507年)に山科言綱の子として生まれ、「言継卿記」を著した人物として知られている公家です。

山科家は名門・藤原氏に連なるの四条家から分かれた中御門家成の六男、実教を祖とする家柄で、公家における家格としては摂関家や清華家に次ぐ羽林家に属しており、それほど力のある家柄とは言えなかったようです。

家業としては有職故実、つまりは研究職ということになるでしょうか。

極官は大納言で、天皇の衣文や装束と音楽の笙(しょう)が担当であったようです。

※山科言継の肖像画が無いため、イラストは信長の野望から引用

 

貧乏公家

室町時代も末期になると荘園制はすでに崩壊、公家の経済状態はどんどん悪化し、山科言継が生まれたころにはすでに「貧乏公家」と言われる状態に陥っていました。

身分としては高貴ではあっても、生計の手段がなかったというわけです。

しかしながら、この山科言継という人物、ただ者ではありませんでした。

自分の身分とお酒を活用して人脈を造り、戦国の世をたくましく生き抜いていったのです。

つまり、身分を利用して公家と武家の間の取り次ぎ役となり、その立場を利用して有力な武家との交流のきっかけとし、酒を酌み交わしては交流を深め、やがてはその庇護を得て収入や身の安全を確保していったということです。

酒の交流で人脈を形成するなんて営業マンさながらです。

この山科言継、非常な酒飲みであったようですが、ただの酒飲みではなかったようです。

この後は、山科言継の戦国時代最強の営業マンともいわれる営業テクニックをご紹介します。

※イラストはイメージです

 

戦国最強の営業マン

山科言継が26歳であった天文二年(1533年)の7月のこと、その頃宮中の楽奉行を務めていた関係で、蹴鞠の大家として知られる飛鳥井雅綱と共に尾張の新興勢力であった織田氏のもとへと赴くことになります。

その前年に山科言継は飛鳥井雅綱から蹴鞠の伝授を受けており、蹴鞠においてはこのふたりは師弟関係でもありました。

当時の武家は、公家の持つ伝統と格式に憧れのような気持ちを持っており、機会があればその貴族的趣味や教養を学びたいと願う武将も多かったといわれています。

織田家も例外ではなく、新築した居館の披露を名目に朝廷に申し入れを行なったことで山科言継らの訪問が実現することになりました。

この時の織田家当主は、織田信長の父の信秀です。

山科言継より3歳年下であった若い織田信秀は彼らを大いに歓待します。

連絡が入ると自ら出迎えに行き、山科言継に馬を譲って自分は徒歩で後からついてゆくという念の入れようを見ると、相当の期待があったことがうかがえます。

相手のほしいものを与えるわけですね。

では織田家で山科言継らは何をしていたのでしょうか。

日中は蹴鞠の稽古をしたり、和歌を伝授したりして過ごし、夜になるとひたすら酒盛りです。

連日このようなことを繰り返すうちに、山科言継は織田一門と親交を結び、そのうちの幾人かを歌道や蹴鞠の門弟にしています。

もちろん、ただではありません。

当時の習慣として、蹴鞠や歌のような諸芸能の門弟として認定することで、太刀や礼金として金子二百疋などを受け取ることができたようです。

一疋は十文に相当し、これは「貧乏公家」にとってはかなりの収入でした。

このような礼金や教授料が当時の公家の重要な収入源のひとつであったのです。

今で言うやり手営業マンです。

後に、織田信長は将軍候補の義秋(後の義昭)を擁して京都に上り、全国統一もあと少しというところで討たれてしまいますが、織田信長とその父織田信秀の関心が強く京都に向けられていたことは否めない事実です。

もしかすると、山科言継のような人物との付き合いにより、公家やその文化に対するあこがれをさらに強めたのかもしれません。

 

今川義元を下戸と評する

弘治二年(1556年)に山科言継は、駿河の有力な武将であった今川義元のもとにも赴き、そこに半年ほど滞在しています。

この時は蹴鞠はぜず、田楽や揚弓を主に行なっていたようです。

歌会も数多く開かれましたが、相変わらず酒浸りで夜な夜な飲んでいたことがうかがえます。

記録によると、山科言継はある夜の飲み会でお酌のために膳の傍らに付いたのが女房衆だったことを喜び、正体なく沈酔して夜十時頃に宿所の寺に帰ったと記されています。

この飲み会では太守の今川義元と共に盃を酌み交わし、ふたりとも楽しいひと時を過ごしたようですが、山科言継は「今川義元は下戸ではあったが十数杯の盃を飲み干した」と記しています。

今川義元を下戸、つまり酒が飲めないと評しているわけですが、よくよく考えるととんでもないことです。

当時の盃はお猪口ではなく、まさに盃で、なみなみと注ぐと小さい物であっても2~3合は入るのです。

それを十数杯飲んだ今川義元は、優に2~3升もお酒を飲んでいることになります。

そんな今川義元を下戸と評するあたりに、山科言継がいかに酒に強かったかが表われているのではないでしょうか。

 

言継卿記

山科言継は、その手による数々の著作を残していますが、中でも「言継卿記」(ときつぐきょうき)は有名です。

これは大永7年(1527年)から天正4年(1576年)に至る50年ほどの期間にわたって書かれた日記です。

失われてしまった部分もありますが、有職故実や当時の芸能、また戦国期の政治情勢などを知る上でとても貴重な史料となっています。

この日記には山科言継と剣聖として高名な上泉信綱との交友についての記録もあります。

また、医療にも通じていた山科言継は、自分が行なった医療行為に関する詳細な記録もその中に記しており、その記述は現存する物の中では日本最古のまとまったカルテとも言われています。

 

まとめ

恐ろしいほどの酒好きではありましたが、実際の山科言継は非常に才能豊かな人物であったことがよく分かります。

戦国の世を酒と人脈で生き抜いた山科言継は、まさに異色の公家として歴史の中に名を残したと言えるでしょう。

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