江戸切子は、数ある伝統工芸品の中でも人気の高さで知られています。
東の江戸切子、西の薩摩切子と言われます。
切子のグラスや酒器はお酒をたしなむ人にとっては、のどから手が出るほど欲しいアイテムのひとつでしょう。
もともと「切子」とは、ガラスにカットによる装飾を入れる技術そのもの、またはその手法で装飾されたガラスのことを指します。
切子細工とも呼ばれます。
「切子」という語は、ガラスを削った時に出る粉「切り粉」から来ていると言われています。
こうしたことから、厳密にはカットガラスの技法を用いたものはすべて切子と呼ぶことができることになります。
世界にはいろいろな切子があり、バカラのカットガラスも切子ということになります。
これら多種多様な切子の中でも、江戸切子は伝統工芸品として非常に高い評価を得ています。
江戸切子の特徴
江戸切子の特徴は、その凛とした輝きです。
透明な鉛ガラス(透きガラス)や、色被せの層が薄いガラスに正確かつ細かい文様が刻み込まれています。
文様には魚子、麻の葉、菊継ぎなどの種類があり、それを一種類か規則的な組み合わせで彫刻していきます。
庶民の文化がその様式の中に取り入れられた、江戸らしい独特の美意識が感じられる作品です。
色被せ【いろきせ】ガラスが用いられる場合には赤や青が多いのですが、紫などが伝統的な色とされています。
本来の江戸切子はやや黄色がかったガラスそのものの色をした透きガラスが用いられていましたが、ニーズに対応して様々な色のものが作られるようになりました。
江戸切子は江戸末期に製造が始まってから、その歴史が途絶えなかった伝統あるガラス工芸です。
その歴史をかいつまんでご紹介しましょう。
加賀屋久兵衛
日本のガラス製品は、実用品としては1549年にフランシスコ・ザビエルがキリスト教と共にガラス製品を日本に持ち込んだのが始まりと言われています。
江戸切子の歴史は、1834年に江戸伝馬町のビイドロ屋加賀屋久兵衛が江戸切子を創始したことから始まります。
第11代将軍、徳川家斉の時代のこと、日本橋通の油町に加賀屋というガラス問屋がありました。
加賀屋は当初、眼鏡を製造していましたが三代目の文政期になるとギヤマンを作り始めます。
この加賀屋に勤めていた皆川文次郎は、さらなる技術を求めて大阪へ旅立ち、和泉屋嘉兵衛に師事して近代的な切子技術を習得しました。
天保10年(1839)に江戸に戻った皆川文次郎は、加賀屋から暖簾分けを許されて加賀屋久兵衛を名乗り、大阪で学んだ切子技術を基に木の棒や金剛砂を使って江戸切子の技法を開発したのです。
ビイドロ屋加賀屋久兵衛は加賀久とも呼ばれ、江戸切子の創始者として今も慕われています。
江戸切子に持ち込まれた薩摩切子の技術
薩摩切子は、1846年に薩摩藩が江戸から切子職人であった四本亀次郎を招聘してガラス細工を始めたのが最初です。
しかしその後の度重なる戦争で薩摩切子は大きな打撃を受け、ほぼ壊滅してしまいます。
職を失った薩摩の職人たちは江戸切子の工房に流れ着き、そこで再びガラス細工に取り組みました。
当時の江戸切子は無色透明なガラスに切子を施していましたが、薩摩藩の全面的バックアップで開発された薩摩切子の最大の特徴である紅色ガラスや色被せ【いろきせ】の技法は、こうして江戸切子にも持ち込まれたといいます。
嘉永6年(1853)には、いわゆる黒船で浦賀にペリーが来航しますが、この時、加賀屋久兵衛に江戸切子の瓶を注文し、ペリーはその技術の高さに驚いたといいます。
品川硝子製造所と技術革新
1873年には明治政府の命令により品川興業社硝子製造所が作られます。
この年にはウィーン万博が開催され、日本も初めて万博に参加しましたが、この際に切子も出品されています。
明治時代になると、洋風の建築が流行りはじめ、障子やふすまなどの建具がガラス製のものに取って変わるようになりました。
切子職人の持っていたガラスの加工技術はこの時にも大きく役立ったと言われています。
加賀屋久兵衛によって開発され広まった江戸切子ですが、現在の江戸切子ルーツともいえるのが品川硝子製造所の存在です。
1872年から1882年にかけて品川硝子製造所ではイギリスから4人のガラス製造の指導者を招いて技術革新を行います。
トーマス・ウォルトン(Thomas Walton)明治7-12年(1874-1879年)まで在籍。
イライジャ・スキッドモア(Elijah Skidmore)明治10-14年(1877-1881年)まで在籍。
ジェームス・スピード(James Speed)明治12-16年(1879-1883年)まで在籍。
エマヌエル・ホープトマン(Emanuel Hauptmann)明治14-15年(1881-1882年)まで在籍。
特に1881年に来日したイギリス人の技師のエヌマエル・ホープトマンはカット技法の専門家で、切子技法の他にグラヴィール技法を日本人に習得させました。
この時、ホープトマン牧師は、大橋徳松、黒田作太郎、山口丸太郎など20名以上に技法を教えたといわれています。
当時のガラス製品は耐久性に難があったのですが、このイギリス人指導者たちの功績により大きな改善を遂げました。
ガラス工芸の発展
1941年には東洋光学硝子製作所が創立されます。
現在のHOYA株式会社です。
太平洋戦争のため東京のほとんどの工場が壊滅的な被害を受けましたが、この東洋光学硝子製作所などを中心に多くの生き残った職人たちが一丸となり、日本のガラス工芸を復活へと導きます。
進駐軍が江戸切子などの工芸品を大量にお土産として購入したこともあり、ガラス工房は発展してゆきます。
東京都伝統工芸品
江戸切子は、1985年に東京都伝統工芸品の認定を受け、次いで2002年に経済産業省伝統工芸品の認定を受けて今に至っています。
現在、江戸切子は東京都江東区亀戸を中心として墨田区や葛飾区、まれに埼玉県などでも製造されています。
ちなみに、「江戸切子の日」というものもあります。
7月5日がその日ですが、これは伝統的な文様である魚子(ななこ)模様にかけたものです。
現在では伝統的なものから先鋭的なものまで、様々な作風の江戸切子を入手することができます。
酒器やグラスだけにとどまらず、メダルやトロフィーまで実にいろいろな作品が製作されています。
素材の違い、文様の深さや意匠、製造方法によって、価格も数千円から数万円台まで様々です。
百貨店やインターネット通販で購入できます。
最近は、自分で切子を作れる体験講座もあります。
興味のある方はぜひ試してみてください。
今後の課題
江戸切子には伝統工芸品であるがゆえの課題もあります。
後継者の不足や原材料の確保が困難になっていることなどです。
あの凛とした輝きのある美しい江戸切子をこれからも楽しめるよう、見ているだけでなく実際に手に取って使うことで応援してゆきたいものです。
しかしながら、江戸切子の歴史において加賀屋久兵衛こと皆川文次郎を讃える文献は多くありますが、大阪和泉屋嘉兵衛のガラス技術や薩摩切子から取り入れた中原尚介らの紅色被せガラス、そして技術革新を果たした品川硝子製造所のエマヌエル・ホープトマンなどについては省かれていることが多いのが残念です。