切子ガラスの双璧とも言える江戸切子と薩摩切子ですが、よく調べてみると両者には明らかな違いが多数見受けられます。
とりわけその作風には大きな差があります。
江戸切子はその大胆な構成が特徴ですが、薩摩切子はぼかしや被せといった技法が用いられ繊細さを特徴としています。
色味にも差があり、江戸切子は透明のものが中心ですが、薩摩切子には様々な色ガラスが用いられています。
こうした差は、産業の始まりによるところも大きいかもしれません。
民営事業と官営事業
江戸切子はガラス問屋の加賀屋九兵衛が商品として販売するために開発したもので、一般庶民が日常的に使用することを意図したものです。
ですから、ガラスも比較的薄めに作られていました。
薩摩切子の場合は薩摩藩主であった島津家の主導により藩の事業として始まりました。
当初は盛んだった製薬事業のための薬品瓶を作るのが目的であったとされています。
そのため、ガラスはやや厚手で丈夫な作りになっていましたが、逆にこの厚みのおかげで色被せ【いろきせ】やぼかしなどの技法を施せるようになり、美しい作品が生み出されるようになったのです。
江戸切子と薩摩切子には、民営か官営か、またどんな用途で用いるかといったところに違いがあったというわけです。
それでも薩摩切子と江戸切子には密接なつながりがあります。
薩摩切子の生産を始めるにあたり、薩摩藩は江戸切子の本場であった江戸から四本亀次郎という技術者を招聘したのです。
その後、20年ほどの期間ではありましたが、薩摩切子は藩の全面的なバックアップを受け、飛躍的な発展を遂げることになります。
その発展の中で紅硝子が生み出されることになります。
これは日本で初めての赤いガラスで、薩摩藩の研究者であった中原尚介などが、数百回に及ぶ実験の末に苦労をして製法を確立したものです。
今では江戸切子にも赤の被せがありますが、これは薩摩切子にルーツがあると言われています。
しかし残念なことに、薩摩切子はお由羅騒動とも呼ばれるお家騒動や藩主の交代、薩英戦争による工房の破壊、幕末の混乱などによって姿を消してしまいます。
江戸切子のほうはそのようなことはなく、職人の系譜が一度も途絶えることがなく激動の時代を乗り切り、工法も発展して現在に至っています。
高い技術を必要とする薩摩切子
1985年に薩摩切子は大変な苦労の末に大阪で復刻されるのですが、その際に薩摩切子の製作技術の高さが浮き彫りになりました。
ある職人が銅赤の被せのガラスをカットしようとしたところ、魚子紋などの模様がうまく入らなかったという逸話が残されています。
実は透明のガラスにカットを施すことでさえ難しく、かなりの修練を必要とするのですが、薩摩切子に使用するガラスは光を通さないやや厚みのある色ガラスであり、カットの具合を確認しながらの作業には相当な技術が必要になるのです。
この作業をろくろで行なうのは至難の業で、薩摩藩時代の照明設備の整っていない工場では手作業で研磨がされていたとみられています。
薩摩切子の製作されていた期間は20年そこそこでした。これは、薩摩藩の職人たちがこうした複雑な細工の施された製品をわずか数年の修業で作れるようになったということを意味しています。
薩摩藩が巨額の投資をして始めた産業の技術力がいかに優れたものであったかがわかります。
江戸切子と薩摩切子の違い まとめ
幸せなことに、現在では両方の切子を愛でることができます。
江戸切子と薩摩切子にはそれぞれの良さがあり、またそれぞれに異なる歴史を持っているのです。