若山牧水は、本名を若山繁(わかやましげる)といい、明治、大正から昭和にかけて親しまれた国民的歌人です。
「酒仙の歌人」とも呼ばれ、酒をこよなく愛した人でもありました。
自然や旅が大好きで、北は北海道から南は沖縄や朝鮮といったところまで出かけてゆき、訪れる各地で短歌を詠んでは揮毫しました。
旅を愛するその思いは、こんな短歌に表われています。
「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」
若山牧水が「酒仙の歌人」と言われる所以は、1日に1升以上を軽く飲むその酒量と、酒を題材にした短歌の多さにありました。
酒仙の歌人
若山牧水が生涯に残した七千首の短歌のうち、酒を題材に詠んだものが二百首もあると言われています。
その中には、こんな歌があります。
「人の世にたのしみ多し然れども 酒なしにしてなにのたのしみ」
「それほどにうまきかとひとの問ひたらば 何と答へむこの酒の味」
「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」
「うまきもの心にならべそれこれと くらべまわせど酒にしかめや」
こういった短歌からは、若山牧水の酒に対する想いが伝わってきます。
酒豪 若山牧水
大正14年のこと、若山牧水は九州へ51日間の歌と酒の旅に出発します。
この時の旅の記録を綴った『九州めぐりの追憶』によると、若山牧水はその51日間、ほとんど毎日飲み続け、朝には3~4合、昼には4~5合、そして夜になれば1升以上を空けたということです。
1日あたり2升5合、この旅の間になんと230リットルものお酒を飲んだことになります。
若山牧水は大正15年5月に長年の夢であった詩歌総合雑誌『詩歌時代』を創刊します。
この雑誌の評価自体は高く、各方面から賞讃を受けますが、経営困難のため10月号限りで廃刊せざるを得なくなってしまいます。
ただひとつの道づれとこそ酒をおもふに
『詩歌時代』でかなりの損失を出してしまった若山牧水はその補填のため、各地を巡ってひたすら揮毫旅行を続けることになってしまいました。
昭和2年も、若山牧水は揮毫行脚に終始することになります。
習慣となっていた大酒と無理な揮毫旅行のため、体調が優れなかった若山牧水は禁酒を試みますが、それも長くは続かず、再び酒に手を出します。
その頃にはこんな歌を詠んでいます。
「寂しみて生けるいのちのただひとつの道づれとこそ酒をおもふに」
若山牧水の心情が感じられる歌です。
酒ばかり恋しきは無し
昭和3年9月の初めごろ、若山牧水はついに病床に臥し、13日には急性腸胃炎兼肝臓硬変症で重体となります。
そんな状態で彼が詠んだ歌は次のようなものでした。
「やまいには酒こそ一の毒というその酒ばかり恋しきは無し」
「ついにわれ薬に飽きぬこいし身を世もあらず飲み死なん」
大酒がたたっての病であるにもかかわらず、酒への愛を謳い上げます。
酒仙の歌人の最期
そして昭和3年9月17日に若山牧水は沼津の自宅で永眠、43歳という若さでした。
残暑の盛りに亡くなったにもかかわらず、死後しばらく経っても腐臭がしなかったため、医師は生きたままアルコール漬けになったのではないかと驚いたと言います。
若山牧水の遺骨は沼津の乗運寺内の墓地に埋葬されました。
「酒ほしさまぎらはすとて庭に出でづ庭草をぬくこの庭草を」
この歌が、最後に詠んだ短歌でした。
旅と自然、そして酒をこよなく愛した漂泊の歌人として、若山牧水は人々の記憶に残っています。