母里太兵衛(もりたへえ)は、黒田長政の名物家臣として知られる人物で、有名な「黒田節」にも出てくる逸話の持ち主でもあります。
母里太兵衛の本名は但馬守友信といい、播磨姫路にほど近い妻鹿(めが)の出身で黒田孝高(官兵衛)および長政親子に仕えた人です。
播磨国妻鹿の国人であった曽我一信(曽我大隅守一信)と、母里氏の娘との間に1556年に生まれたとされます。
幼名は曽我万助といい、後に太兵衛と改名します。
もともと母里太兵衛の父の曽我一信は、播磨の小寺氏に仕えており、その小寺政職に重用されていた黒田職隆の与力的な武将であったようです。
こうしたつながりもあってか、1569年に母里太兵衛は14歳で黒田官兵衛(黒田孝高)に仕え、栗山善助(栗山利安)がその世話をしたといわれています。
母里太兵衛の弟には野村祐勝(野村太郎兵衛祐勝)という武将もいました。
豪傑!母里太兵衛
大人になった母里太兵衛は、「黒田二十四騎」の中でも特に重く用いられ、「黒田八虎」の一人に数えられるほどの勇将となります。
後に栗山善助(栗山利安)と共に黒田軍の先手両翼の大将として、朝鮮の役などの多くの合戦で活躍しました。
残されている資料によれば、母里太兵衛は大男で髭も濃く、勇猛で頑固な性格だったようです。
また、主君に対しても物おじせず数々の直言や諫言を行なう、まさに豪傑タイプの武将でした。
なぜ母里姓を名乗ったのか!?
この母里太兵衛、父方の性は曽我でしたが、なぜ母方の母里を名乗ったのでしょうか。
もともと母里氏は、出雲国の尼子氏に繋がる播磨の甲山城主であり、今の兵庫県加古郡稲美町母里を本貫地として黒田職隆の従弟の黒田小兵衛が、母里氏の養子として母里能登守の娘と結婚して母里小兵衛と名乗っていました。
しかしながら、曽我太兵衛も出陣していた1569年の青山の戦いで、母里小兵衛や母里武兵衛といった面々は劣勢の中奮戦したものの討ち死にを遂げ、結局のところ母里一族は24人が討ち死にとなってしまいます。
この壮絶な結果に、母里小兵衛の嫡男であった母里雅楽助(妻鹿城主)は、一族の死を悼み、武士を引退して京都へ移住してしまいます。
後に母里雅楽助は筑前国へ招かれ、黒田家に仕えることになりますが、この時には母里家の断絶という事態が迫っていました。
そのため黒田官兵衛は、小寺家の家臣である曽我一信と母里氏の娘との間に出来た子であった曽我太兵衛に、母方の母里家の家督を継がせることにしたというわけです。
こうして曽我太兵衛は母里太兵衛を名乗ることになったのです。
母里太兵衛の強情な性格を良く知っていた黒田官兵衛はこの時、栗山善助と母里太兵衛に義兄弟の契りを結ばせ、義兄である栗山善助の言葉に逆らわないように命じたと言われています。
黒田節の由来
母里太兵衛は酒も非常に強かったようで、「フカ」(サメが海水を飲みこむ様子からつけられたものかもしれません)というあだ名がつくほどの酒豪でした。
そんな母里太兵衛の非常に有名な逸話があります。
母里太兵衛は文禄の役では先手を務め、慶長の役の稷山の戦いでも華々しい戦功を挙げましたが、これらの役の休戦中に日本に戻っていた時、伏見城下において母里太兵衛は黒田長政から福島正則のもとへ使いを命じられます。
母里太兵衛を選んだ黒田長政は、福島正則も豪傑酒豪としてよく知られていたことから、両人が顔を合わせると必ず酒の話となるだろうと推測し、酒のために役目をしくじってはまずいと考えます。
そこで黒田長政は母里太兵衛に対し、先方で酒が出ても決して飲んではならないと強く言い渡したうえで派遣することにします。
案の定、福島正則は朝から酒宴を張っていました。
そこへ黒田家から母里太兵衛が到着したと聞くと、喜んで酒席へ呼んで、用件など後回しでいいからまずは一杯飲むよう勧めます。
酒には目がない母里太兵衛ではありましたが、主君である黒田長政からの厳命がある以上飲むわけにはゆかず、何度も固辞します。
しかし福島正則も酒が入っていたこともあってあきらめず、執拗に酒を勧めます。
大杯を見事に飲み干せば褒美をやるとか、無理やりにでも飲ませてやるなどと食い下がります。
主君の命令なので、口が裂けても飲めないと断る母里太兵衛に、業を煮やした福島正則は「あの有名な母里でさえたった一杯の酒に後ろを見せるとは、黒田家は腰抜けぞろい、骨も筋もない豆腐のような弱虫藩ではないか!」とあざけります。
主家をここまで言われて黙っているほど母里太兵衛はおとなしくありません。
ここで逆に諍いを起こしては厄介だと考えた母里太兵衛は、大盃で酒を飲み干したら、福島正則の秘蔵の名槍「日本号」を貰う約束を取り付け、重々念押ししたうえでついに酒を飲むことにします。
飲むと決めたら母里太兵衛の面目躍如、直径一尺もある朱塗りの大杯になみなみと注がれた酒を立て続けに三杯飲み干し、うろたえる福島正則から約束していた通り秘蔵の名槍「日本号」を授かることに成功します。
母里太兵衛はこの天下の名槍「日本号」を担ぎ、黒田藩歌の「筑前今様」を吟じながらゆうゆうと帰途に就いたといいます。
ちなみに、この黒田藩歌「筑前今様」が替え歌となって現在の「黒田節」になったと言われています。
「呑み取り日本号」とも呼ばれるこの逸話は非常に有名で、母里太兵衛(母里友信)は現代でも博多人形の題材として多く取り上げられ、槍と盃を手にした姿で表現されています。
また、博多駅前や西公園などにはこの逸話を元にした銅像が設置されています。
天下の名槍「日本号」
名槍「日本号」は長さが3m以上もある大槍で、もともとは正親町天皇から室町幕府15代将軍の足利義昭に下賜されたものでした。
それが織田信長、豊臣秀吉、福島正則を経て母里太兵衛へと渡っていったのです。
後に母里太兵衛は危機を救ってくれたお礼に、後藤又兵衛(後藤基次)という武将にこの日本号を贈っています。
その後、後藤又兵衛は黒田長政との確執が生じて出奔することになってしまいますが、その際にこの「日本号」と自分の紋を娘婿であった野村祐直に授けてゆきます。
それというのも、後藤又兵衛の娘が母里太兵衛の弟の野村祐勝(のむらすけかつ)の子である野村祐直の嫁となっていたためでした。
この野村祐直は家督を継承した後は、若くして黒田官兵衛や黒田長政に中老格で仕え、後に野村大学と名乗っています。
その後、天下の名槍「日本号」は野村家に代々伝えられていましたが、大正時代に入って質に出されてしまい、その行く末を案じた旧福岡藩士出身の炭鉱経営者、安川敬一郎と頭山満という2人の人物が買い取り、黒田家14代当主の黒田長禮氏に献上されました。
時を経て現在、この槍は国宝の金印と共に福岡市に寄贈され、福岡市博物館でその美しい姿を目にすることができます。
福岡市博物館
開館時間: 午前9時30分~午後5時30分(入館は5時までです)
休館日: 月曜日(月曜日が祝日や休日の場合はその翌平日が休館)、年末年始(12月28日から1月4日まで)
入館料: 一般200円、高大生150円、中学生以下無料、20人以上は団体割引あり
※文化の日(11月3日)に限り常設展は無料でご覧いただけます。
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL 092-845-5011
FAX 092-845-5019
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市営地下鉄 博多駅[K11]から約13分、天神駅[K08]から約7分
西鉄バス 博多駅から約25分、天神から約20分
高速道路 福岡都市高速道路「百道(ももち)ランプ」から約3分
駐車場 無料(大型バス10台、普通車250台)
幾多も存在する日本号の模造品
名槍「日本号」は、正三位の位ありと謳われたその由来と姿の美しさおよび完成度の高さから、現存する大身槍の中では究極の存在とされています。
そうしたこともあって、多くの写し(模造品)が制作されています。
槍を手掛ける刀匠で腕に覚えのある者は生涯で一度は「日本号」の写しに挑戦する、と言われることもあるくらいです。
槍身本体だけではなく、柄と鞘に施されている青貝螺鈿貼拵も多くの写しが制作されています。
広島県広島市の広島城天守閣では広島市が所蔵する写しが常時展示されています。
また、近年では大阪歴史博物館に所蔵されている人間国宝の月山貞一による写しが特に有名です。(※写真)
まとめ
母里太兵衛と呑み取り日本号、そして黒田節。
酒を愛した豪傑の姿を思い浮かべつつ、一献また一献、というのも時にはよいのではないでしょうか。