剣菱~忠臣蔵、頼山陽、山内容堂など日本酒の代名詞として人々に愛された丹醸のしるし~剣菱酒造株式会社

剣菱は、これほど有名なものはないと言っていいくらい著名な清酒ブランドです。

歴史の古さ、文化に与えた影響、愛飲家の数など、どれをとっても抜きん出ているといっても過言ではありません。

この剣菱を現在製造しているのが剣菱酒造株式会社です。

剣菱酒造株式会社

kenbishi03現在の剣菱酒造株式会社は、昭和4年(1929年)の設立です。

しかしながら、剣菱のルーツは非常に古く、その酒造りは永正2年(1505年)にまでさかのぼることができます。

剣菱はその始まりから今に至るまで、五家と呼ばれる酒造家たちにより守り継がれてきました。

ここでは、家ごとに剣菱の歴史をたどってみましょう。

稲寺屋

kenbishi02-image江戸時代の文献である「二千年袖鑒」によると、伊丹で稲寺屋が永正2年に創業したことや、この文献が出版された嘉永2年(1849年)の時点ですでに345年もの歴史があることなどが記されています。

この文献に乗せられているロゴは現在のものと変わりませんが、どこにも剣菱という言葉がありません。

もともとの創業家である稲寺屋が当初醸造していたお酒の銘は、現在も謎に包まれたままとなっています。

剣菱のロゴの上部は男性を、下部は女性を表わしているとされています。

言い伝えによると、このお酒を飲むことでめでたい兆しを感じるとともに、ロゴに込められた霊気と酒魂によって劣勢を盛り返し、奮起して家運繁昌へつながるということです。

丹醸

寛文元年(1661年)に、伊丹の酒が大きく発展する原因となった出来事が生じます。

伊丹はそれまでは幕府の直轄領でしたが、この年に五摂家筆頭である近衛家の領地となります。

五摂家は貴族藤原氏の嫡流でもあり、名門として知られています。

伊丹を治めることになった近衛家は酒造業を大いに支援します。

kenbishi-tanjo偽物が出回らないようにするため、精密な焼印を付けることで産地を保証したり、伊丹の酒造水を領外に持ち出すことを禁止するなどの施策を行ないます。

もともと伊丹のお酒は味の良さでは抜きん出ていたところに、近衛家公認というブランドが付与されることになり、結果として伊丹のお酒は「丹醸」と呼ばれる極上の名酒の醸造地として全国的に有名になってゆきます。

下り酒

ちょうどこの時期は、お酒の流通が馬による陸運から船による海運へと移行する時期でもありました。

伊丹の酒造家たちの協力もあり、伊丹のお酒は大阪の伝法にある船問屋によって伝法船(樽廻船としても知られています)で江戸に輸送されるようになります。

この伝法船(樽廻船)の運航により、伊丹のお酒は江戸で大流行となります。

この頃に「下り酒」という表現が生まれました。

kenbishi-kudarizake当時は京都が上方でしたので、江戸へ来るお酒は下りということになります。

元禄6年(1693年)の江戸の総人口はおおよそ60~70万人と言われていますが、当時の「下り酒」の出荷量で江戸の人口1人当たりの消費量を計算してみると1年間で4斗、つまり一升瓶でなんと40本分にもなり、その勢いを示しています。

江戸では下り酒以外のお酒を「下らない酒」と呼び、これが面白くないことを表わす「くだらない」の語源となったとも言われています。

酒と書いて「けんびし」と読む

当時の江戸の流行語にも伊丹のお酒が登場しています。

例えば、上から読んでも下から読んでも同じ読みになる「伊丹の酒、今朝飲みたい」(イタミノサケケサノミタイ)や、伊丹の地名と恐縮の意を表わす痛み入るという語をかけた「徳利のお土産なにより伊丹入り」などが知られています。

江戸時代後期の文豪である頼山陽の記した長古堂記によると、伊丹のお酒が江戸で評判になるにつれて、江戸の人々がこれを剣菱と呼び習わすようになり、結果としてこれが酒銘になっていったと述べられています。

やがて剣菱は日本酒の代名詞的存在となり、酒と書いて「けんびし」と読まれることもあったといいます。

稲寺屋の衰退と徳川吉宗

tokugawayosimuneこうして銘酒の地位を確立した剣菱ですが、稲寺屋は急速に衰退してゆくことになります。

その一因となったのが元禄14年(1701年)に起こしてしまった稲寺屋事件といわれる失態です。

稲寺屋治郎三郎が伊丹酒屋35名の連名で取り決めた規則を破って不正に酒樽の積み出しをしたことが発覚し、稲寺屋は制裁を受けることになります。

それに加え、享保(1716~1735)に入ると米価が低落したことによる収益の悪化も衰退に拍車をかけました。

元文5年(1740)年には、剣菱が八代将軍である徳川吉宗の御膳酒に指定され、これが起死回生の手となり再興を果たすのかと思われましたが、わずか3年後には剣菱の酒株を譲渡することになり、こうして創業家の稲寺屋は御膳酒指定という名誉を最後に酒造りから撤退することとなります。

津国屋 ~坂上桐蔭~

kenbishi-takimizu寛保3年(1743年)に稲寺屋が酒株を手放し、代わって剣菱を受け継いだのが現在の伊丹市中央部付近に位置する大鹿村で酒造りに励んでいた津国屋の当主、坂上桐蔭(勘三郎)です。

もともと大鹿村で山から流れる麗水を汲んで清酒を醸造していた坂上桐蔭は、伊丹に酒造りの場を移して剣菱を継承してからも、水に相当のこだわりを持っていました。

その心意気が、現在の剣菱のラベルにも残る「瀧水」の二文字に表われています。

この水へのこだわりが、津国屋の大きな繁栄へとつながってゆくことになります。

坂上桐蔭の水へのこだわりが生んだ逸話のひとつに、こんなものがあります。

剣菱の仕込み用水として使用していた井戸の清掃中、その井戸の底から不動明王像が見つかったのです。

そしてこのことがきっかけとなり、上部が男性を、下部が女性を表わすとされていた従来のロゴの意味に加え、不動明王の右手に握られている降魔剣の刀身と鍔の形を表わしたもの、という新たな意味が追加されることになったというものです。

江戸流行名酒番付

kenbishi-banzuke津国屋は、寛延3年(1751年)には江戸積み酒造人のひとりに名を連ね、その手腕をいかんなく発揮し剣菱の価値を高めます。

江戸流行名酒番付という江戸時代の資料がありますが、この番付では坂上の名と剣菱のロゴマークが東の大関として堂々と名を連ねています。

ちなみに、当時の番付では大関が最高位でしたから、その隆盛ぶりをうかがい知ることができます。

それから100年ほど経っても剣菱の地位は揺るぎないものだったようです。

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太平喜餅酒多多買

天保14年~弘化3年(1843年~1846年)ごろに歌川広重によって描かれた「太平喜餅酒多多買」という錦絵にも剣菱が登場しています。

この絵は、当時の江戸の人々に人気があったお餅とお酒を擬人化して合戦を繰り広げる様子を描いたものですが、酒軍の大将は剣菱となっています。

つまり、津国屋がこだわりを持って醸造する剣菱は、この時点で100年もの期間にわたり名酒の代表としての地位を守り続けたことになります。

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下り酒の最盛期と酒造鑑札

kenbishi-kudarizake2文化文政期には下り酒はまさに最盛期を迎えていました。

最盛期には江戸への積み出し樽数が年間でなんと100万樽を超えていました。

下り酒の主流は灘の酒となっていましたが、伊丹のお酒も文化元年(1804年)には積み出し樽数が27万樽と過去最高の水準となります。

その中でも剣菱は異彩を放っていました。

灘酒史という資料によれば「剣菱の名独り海内に轟き、大凡酒価の昂低は、一に剣菱を以て、其の標準を為すに至れり」とあり、つまりは剣菱がお酒の価格を決定する基準となっていたほどでした。

剣菱をまさに日本酒の代表格へと押し上げた津国屋でしたが、明治5年に酒造業から手を引くことになります。

慶応4年(明治元年)の時点で、津国屋が1万石の鑑札高と酒造蔵6蔵を所有していたことを考えると驚くべきことですが、これには明治政府の政策が関係していました。

kenbishi-huda明治4年(1871年)に政府は酒造に関する新たな規則を制定します。

この規則により、従来の鑑札を没収して新たな鑑札が発行され、その後は新規の免許料金として10両と稼人ひとりにつき金5両を、そして販売価格の5%の醸造税を払えば誰でも酒造業に携わることができるようになり、業界に大変革をもたらすものとなりました。

既存の酒造家の営業特権がなくなり、いわば自由化をしたわけです。

この新規則により、地方には新進気鋭の酒造家が多数生まれることになりましたが、その一方で多額の資金を投じて書き換えた酒造鑑札をわずか3年で没収されることになった従来の酒造家にとってはまさに大打撃でした。

実際、この規則の実施をきっかけとして伊丹では18人の新規酒造家が登場しますが、代わりに25人の酒造家が廃業の憂き目を見ることになりました。

津国屋も例外ではなく、剣菱ブランドはこの近代化の波に乗る形で現れた稲野利三郎という酒造家に受け継がれることになります。

稲野利三郎

kenbishi-sugoroku稲野利三郎は酒造家としては新規参入という形でしたが、明治20年には伊丹酒造家のなかで造石高第一位となります。

また、伊丹酒造改良会社が立ち上げられる際には発起人として名を連ねるなど、順調に業績を伸ばしていきます。

しかし、政策による制度の度重なる変動により非常に大きな影響を受けることにもなります。

新たな制度によって酒造業に参入することができたとはいえ、その後も酒税制度はたびたび改正され、例えば明治11年(1878年)に定められた造石税は、明治34年までに当初の15倍の税率に引き上げられています。

こうした増税の重圧が、伊丹酒造業そのものの衰退を招いてゆきました。

加えて、技術的な遅れも大きく影響しました。

明治20年には、伊丹全体の造石高は全国のわずか0.7%しかシェアがありませんでした。

それが明治34年には0.3%以下にまで減少してしまいます。

それとは対照的に、同条件だった灘五郷は順調にシェアを増加してゆき、明治34年には全国の9%のシェアとなっていました。

こうして伊丹のお酒は灘のお酒に決定的ともいえる差をつけられてしまうことになったのです。

この遅れをなんとかしようとして利益度外視で技術改革に注力した伊丹酒造改良会社も思うように結果を出すことができませんでした。

稲野利三郎がなぜそう決意したのかは知られていませんが、ついに明治42年に廃業を決定します。

代わって剣菱を受け継いだのが、池上茂兵衛でした。

丸屋 ~池上茂兵衛~

kenbishi-img_0池上茂兵衛はもともと、丸屋という屋号で知られる伊丹でも有力な酒造家の家に生まれています。

井原西鶴の元禄7年(1694年)の作品である「西鶴織留」にも、丸屋の名が出てきます。

剣菱にとっては、稲寺屋の時代から切磋琢磨しあうライバルでもあり、お互いをよく知る盟友でもありました。

伊丹の酒造業がどんどんと衰えてゆく中、池上茂兵衛が相当の覚悟をもって剣菱を継承したことは間違いありません。

かつて井原西鶴に「津の国の隠れ里が酒の名所であることは、もはや世に隠しようがない」とまで記された伊丹は、もはや酒造業の地としてではなく、ランプ口金や綿ネル、由多加織、マッチなどの工場が次々と建つ近代産業の地へと大きく変化しつつありました。

実際、明治初期には40人いた酒造家も、明治42年には14人にまで減少していたのです。

丸屋にしても、剣菱を受け継いだ明治42年の時点で、池上茂兵衛の造石高はわずかに1393石しかありませんでした。

それでも、「丹醸」の意地と誇りを抱きつつ、伊丹で剣菱を造り続けます。

しかしながら、明治中期には4000石以上あった剣菱の造石高が大正末期には1000石を切るところまで減少し、昭和元年、ついに池上茂兵衛は廃業を決定することになります。

こうして、創業以来ずっと続いてきた伊丹での剣菱造りに終止符が打たれることになりました。

剣菱酒造 ~白樫政雄~ 伊丹から灘へ

kenbishi-shirogashi昭和4年(1929年)、白樫政雄が剣菱酒造を設立し、剣菱が再び醸造されることになります。

酒造りが行なわれたのは灘(住吉)の酒蔵であり、水は西宮から船で運び、トロッコを利用して蔵へ水を引き込んでの製造となりました。

そしてこの時点から、剣菱は伊丹のお酒ではなく灘のお酒となります。

変わらない丹醸の文字

history_pg2_2しかしそれでもラベルには従前の「丹醸」の文字をそのまま継承し、剣菱の味と歴史に対する敬意を表わしました。

灘で作られていながら丹醸と表記することで、剣菱の伝統をしっかりと受け継ぐ覚悟を示したことになります。

白樫政雄が灘で剣菱の醸造を始めてから、現在に至るまで、剣菱のラベルからこの「丹醸」という文字が消えたことはありません。

その後も大恐慌や天災、戦争といった数々の難局がありましたが、その都度それらを乗り越え、広く支持されるようになってゆきます。

灘に移ったばかりのころにはわずか1つしかなかった酒造蔵は昭和56年(1981年)までには8つに増え、販売量も昭和53年(1978年)には16万石にまで伸びてゆきました。

黄色を帯びた伝統の味

現在も剣菱酒造は伝統の酒造りを踏襲、杉の甑や麹蓋、暖気樽といった昔ながらの道具を使い、山廃酛、長期醪で米のうま味を充分に引き出し、ひと夏以上の熟成を経て濃醇でキレのいい酒を仕上げています。

「肩書きよりも味」をポリシーとし、精米歩合のラベル表示をしていません。

これは、毎年毎年異なった条件下で育ったお米の出来ぐあいに合わせて精米歩合を変えているからです。

12519489_203752359975710_2109861359_nまた、剣菱は無色透明ではありません。

他の一般的な日本酒と比べると、黄金色をしていることが分かりますが、これにも理由があります。

実は、どんな日本酒も新酒の状態ではやや緑がかった黄色を帯びています。

それを貯蔵し熟成すると薄い紅茶のような色になり、さらにそれをろ過すると透明になってゆきます。

この時、ろ過で使う炭の量を増やせば増やすほどお酒は透明になってゆきますが、その色と共にお米の旨みも抜けてしまうために、あえて炭の量を少なくしているのです。

つまり、色が残っているのは、裏を返せば味もしっかり残っているということでもあるのです。

人々に愛される剣菱

剣菱は、かつては川柳や浮世絵といった娯楽文化のなかでたびたび描かれました。

そして歴史上の有名な人物にも愛されてきました。

剣菱は今なお様々な娯楽作品のなかに登場し続けています。

代表的なところをいくつか取り上げてみましょう。

忠臣蔵 ~剣菱を持て!~

kenbishi-tyushingura剣菱は、47人の赤穂浪士が吉良邸への討ち入りの前に出陣酒として飲んだことで知られていますが、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の中のセリフにも剣菱が登場していたと言われています。

劇中の大石内蔵助がモデルとなった大星由良之助が「酒を持て」と言うセリフは、かつては「剣菱を持て」だったとする説もあります。

浮世絵

kenbishi-ukiyoe有名な浮世絵の「東海道五十三次」のひとつ「日本橋」には、橋の後方を行く2人組が担ぐ樽に剣菱のロゴを確認できます。

人気のあった歌舞伎役者やその舞台を描いた役者絵の「でつち寝太郎」や「杉さかやばゞお熊」、江戸の大問屋である高崎屋の繁盛ぶりを描いた「高崎屋絵図」の中にも、剣菱の菰樽が描かれています。

川柳 ~すき腹へ剣菱えぐるようにきき~

最も有名なのは、「すき腹へ剣菱えぐるようにきき」というものでしょう。

これは、剣菱のしみわたるような旨さと、懐にあったなけなしのお金をはたいて剣菱を買ってしまったことをかけて詠んだ一句です。

「剣菱をひっかけて寝る橋の上」という句もあります。

これは、剣菱の菰を布団の代わりに掛けて路の上で寝ている人のことを詠んだもので、酔っ払って橋の上で寝るという意味ではないようです。

他にも、「花はさくら木酒は剣菱」「剣菱を墓へかけたき呑仲間」「からしするそばへ剣菱持て来る」など、剣菱を題材としたユーモラスな川柳がたくさん存在しています。

広辞苑 ~摂津の伊丹産の上酒の銘~

国語辞典の広辞苑には、「剣菱」の項目があり、他の意味とともに「摂津の伊丹産の上酒の銘」という説明があります。

こち亀 ~いちばん好きな酒だ~

kenbishi-kochikame人気の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(秋本治)の第14巻「酒飲むべし!の巻」には、両さんこと両津勘吉が剣菱の酒造蔵を見学に行く場面が描かれています。

そこでは剣菱について「いちばん好きな酒だ」「8歳の時から親しんでいる」などと語ります。

※飲酒は20歳になってからです。

もちろんこれは漫画の上での話です。

スケバン刑事 ~矢島雪乃の袱紗~

kenbishi-hukusaかつての人気ドラマ「スケバン刑事Ⅱ 少女鉄仮面伝説」(昭和60年~昭和61年にフジテレビ系列で放送)にもさりげなく剣菱が登場します。

ヒロインのひとりである財閥令嬢の矢島雪乃の武器であった袱紗【ふくさ】の真ん中には、剣菱のロゴがあるとして話題になりました。

頼山陽 ~質実であれば変動せず、変動しなければ永続する~

kenbishi-raisanyo文豪・酒豪として高名な江戸後期の漢詩人である頼山陽は、剣菱をこよなく愛していたようです。

彼の書いた「長古堂記」という作品には、剣菱のロゴについての記述があり、他社が話題作りのために毎月のように銘柄を変えているのに対して、「墨くろぐろと縦、横一筆ずつ剣の刃先と菱形を書き、昔から改められたことがない」と述べています。

さらには「質実であれば変動せず、変動しなければ永続する」として、剣菱の酒造りに対する姿勢への共感と称賛を表わしています。

「兵用ふべし、酒飲むべし」で知られる「攝州歌」という有名な詩の中でも、その終わりの部分で「伊丹の剣菱」の旨さについて触れています。

頼山陽研究の第一人者である市島春城(謙吉)によると、頼山陽は「日本外史」という幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたベストセラーを執筆中、常に手元に剣菱を置いており、内容が幕府の怒りを買うことを怖れて筆の動きが鈍ったときには、その剣菱をちびちびと飲んでいたと証言しています。

藤田東湖 ~心のなかに積み重なる愁いを衝き破る鋭い力~

kenbishi-hujita藤田東湖は江戸時代後期の思想家また政治家です。

維新の志士たちに大きな影響を与えた人物でもあります。

彼は著作「瓢貧歌」の中で

「1斗の剣菱を傾けると、なにさま天下の銘醸のこととて、えもいわれぬ酔い心地になって憂鬱も消えてなくなり、のどかな気分になる。さすがに剣菱という名を持っているだけあって、心のなかに積み重なる愁いを衝き破る鋭い力はまったく神品である。古くから酒というものは清貧の人士に付きもので、酒の本当の味を理解できるのは自分たち清貧の志士である」

と歌いました。

山内容堂 ~剣菱にあらずんば即ち飲むべからず~

kenbishi-yodo山内容堂は、土佐藩の15代藩主であり、幕末の四賢候といわれる4人のうちの1人です。

彼も剣菱の愛飲者でした。

「剣菱賦」なる詩の中では「剣菱にあらずんば即ち飲むべからず」とか、剣菱は何物にも代えがたい宝であり、そのロゴの輝きは北斗七星よりもまばゆく感じられるとか述べており、相当の剣菱ファンであったようです。

山内容堂といえば、伊豆の下田にあった宝福寺における勝海舟との会談で坂本龍馬の脱藩を許した時の逸話が有名です。

酒を飲めない勝海舟に対し、朱の大杯に満たされた酒を飲むよう勧め、勝海舟がためらいなくそれを飲み干すのを見て坂本龍馬を許すことにしたのです。

この時、山内容堂は自分の白扇に瓢箪を描き、その中に「歳酔三百六十回 鯨海酔侯」と記して勝海舟に手渡したと言われています。

→酒豪列伝~山内容堂~剣菱を愛し鯨海酔侯と呼ばれた大政奉還の要人

ちょうつ菩薩 ~夜泣きを止めてくださいな~

東京都杉並区久我山には、石造りの剣菱の酒樽を台石にした舟型浮彫りのお地蔵さまが祀られています。

昭和55年(1980年)刊行の「杉並の伝説と方言」(森泰樹)には、そのお地蔵さまにまつわる伝説が記されています。

それによると、酔うと人の頼みをなんでも引き受けてしまうという面白い酒癖を持っていた伝右衛門という人が、生きているうちは仕事に追われているんだから、死んだらゆっくり酒樽の上で暮らしたいと考えて、剣菱の酒樽を台石にした墓石を建てたということです。

伝右衛門は文化12年(1815年)に亡くなり、そこに葬られるのですが、まもなくして伝右衛門の親戚のところに生まれた赤ちゃんの夜泣きに疲れ果てていた母親が、何でも手伝ってくれた伝右衛門を思い出し、彼の墓石に向かって「夜泣きを止めてくださいな」とつぶやいたところ、赤ちゃんがぴたりと泣き止んだとされています。

このことはすぐに広まり、ちょうつ(ちょうじゅ)菩薩さまと敬われ信仰されたということです。

ちなみに、お祈りの方法として少しだけお酒をかけ、夜泣きが止まったら沢山さしあげますよと祈れば良いとか、お酒は剣菱が一番効き目があるなどと言われているそうです。

このように、剣菱にまつわる逸話には事欠きませんが、これは剣菱が人々にいかに愛されてきたかを物語るものではないでしょうか。

酒造見学について

現在のところ、残念ながら見学は行なわれていません。

剣菱酒造株式会社
兵庫県神戸市東灘区御影本町3-12-5

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おすすめのお酒

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いちおしは、看板商品の「黒松剣菱」です。

まずはこのお酒をおすすめします。

口に含んだ瞬間に濃厚な香りが膨らみ、豊潤な味わいを堪能できます。

独特のうま味に酸味や辛味がマッチして、まろやかなコクが感じられる逸品です。

飲み込んだ後の余韻も非常に上品です。

銘柄: 黒松剣菱
特定名称: ―
使用米: 山田錦、愛山
精米歩合: ―
日本酒度: ―
酸度: ―
アルコール度数: 17度

香り  弱★・・・・強
コク  薄・・・・★濃
キレ  弱・・・・★強
味わい 甘口・・・★・辛口

このお酒はぬる燗でいただくのがよいでしょう。

風味があってあっさりとした和食には非常によく合います。

焼き牡蠣やあさりの酒蒸しなどと剣菱をかわるがわる口に運べばもう堪えられません。

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2年以上熟成させた純米酒をブレンドした「瑞穂黒松剣菱」もおすすめします。

剣菱ならではのまろやかな味わいを存分に楽しむことができます。

また、蔵元最高級のお酒として「瑞祥黒松剣菱」があります。

こちらは冬期限定の長期熟成酒で、タンクで5年以上熟成させたうえ厳選した酒をブレンドしたものです。

一度は味わっていただきたいお酒のひとつです。

剣菱~日本酒の代名詞として人々に愛された丹醸のしるし~まとめ

剣菱酒造株式会社は、500年以上の歴史を誇るブランド「剣菱」を現代に伝える蔵元です。

剣菱を飲みながら、歴史上の著名人の生きざまに想いを馳せることも、江戸の庶民の暮らしを感じることもできます。

このお酒を今も、これからも飲み続けることができるのは本当に幸せなことではないでしょうか。

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