薩摩切子の歴史と謎~カメイガラス由利精助の功績~江戸に逆輸入された薩摩の技術

薩摩切子はいろいろと謎に包まれたカットガラスです。

江戸時代に製作が始まりましたが、実際に薩摩で継続して作製された期間は20年ちょっとと非常に短く、その後は断絶してしまいました。

薩摩で切子細工が作られるようになったことには、いろいろな要因があったようです。

 

薩摩切子の誕生

当時の薩摩藩主、島津斉興は紡績や軍事など多くの事業を多角的に経営する集成館事業と呼ばれる洋式の産業に挑戦していました。

もともと薩摩藩は関ヶ原の戦いで敗れた側で、完全に外様でした。

ですから、幕府に対抗する力がそれなりに必要だったのです。

そのうえ、土地は桜島火山の噴火の影響で穀類の栽培には向いておらず、結局は産業によって他の藩からの貨幣収入によってやりくりをするしかなかったのです。

紫色梅形皿 サントリー美術館蔵

特に当時の薩摩藩では薬草栽培が盛んであったことから、製薬業が有望な産業と目されるようになっていました。

しかし製薬のためには、硫酸など多くの化学物質にも強いガラスの瓶が必要となります。

そこで薩摩藩主の島津斉興は1846年に長崎から伝わった外国の書物を参考にしつつ、江戸から四本亀次郎という人物を招聘し、江戸切子の技術を活用して耐久性の高いガラスを製造することに成功し、薩摩藩の肝いり事業としてスタートしました。

江戸切子の歴史については「江戸切子の歴史」を参照してください。

この時、長崎で手に入るビイドロで対応できたという説もありますが、このようにして薩摩でガラスの製品が作られるようになったわけです。

 

20数年で姿を消した薩摩切子

緑色被栓付瓶_岡仙汲古堂蔵

次の藩主、島津斉彬もこの薩摩切子事業を推進し、わずかな期間で上質な作品を作り出すことに成功しましたが、このころの薩摩および日本を取り巻く状況はめまぐるしく変化していました。

アヘン戦争以来、欧米列強諸国は中国や、薩摩藩の配下であった琉球へ進出しようとしていました。

富国強兵、殖産産業といった政策も影響を与えました。

薩摩藩内にもお由羅騒動などの争いが起き、ごたごたが続きます。

薩英戦争ではイギリス軍の砲撃などによりガラス工場などが崩壊してしまいます。

さらには幕末の動乱や西南戦争の混乱により、薩摩切子の歴史と技術は誕生からわずか20数年で完全に途絶えてしまいます。

薩摩切子が途絶えると職に困った職人は江戸を目指します。

こうして江戸切子に色ガラスが取り入れられることになったといいます。

当時の薩摩切子で残っているは非常に少なく、骨董品として高値で取引されています。

 

由利精助とカメイガラス

この失われた薩摩切子が復刻されたのは、九州ではなく大阪でのことでした。

大阪の天満周辺は、ガラス工芸技術が発達しており、様々なガラス生地を作ることに精通していました。

かつて「カメイガラス」という硝子食器問屋が大阪にありましたが、この問屋で由利精助という人物が中心となり、薩摩切子の復刻に挑みます。

1975年ごろから1980年代にかけて大阪の切子加工職人と各地のガラス工場や研究家たちが協力し、薩摩切子の復刻に挑戦しますが、その際に薩摩切子の製作技術の高さ、そして様々な謎が浮き彫りになったのです。

20140430-a-3当時から優秀だった大阪のガラス加工技術により色被せガラスを復刻するのには成功しましたが、この分厚い銅赤の色被せのガラスをカットしようとしたところ、目視しにくく魚子紋などの模様がうまく入らなかったというのです。

薩摩切子に使用する分厚い色被せガラスは生地のままでは光を通しにくく、内面から目視しづらいのです。

また、薩摩藩時代において現在のような証明設備はあるはずもなく、現在よりも暗い光源でカットの具合を確認しながら、ろくろを廻すというのは至難の業で、当時の技術の謎といわれています。

さて、これら多くの謎や当時の技術の高さに直面しながらも、大阪の切子職人たちは、その甲斐あってついに薩摩切子を復刻し商品化することに成功します。

残念ながらカメイガラスは1990年代なかばに廃業してしまいますが、薩摩切子の復刻に関わった切子職人たちや問屋がその技術を受け継ぎ、大阪で工芸品として定着しました。

現代の薩摩切子の歴史は大阪から始まったのです。

その後も大阪の薩摩切子職人たちは手磨きにこだわりをみせている職人が多く、薩摩藩当時の高い技術を受け継いでいます。

 

鹿児島県で復刻された薩摩切子

1989年には薩摩(鹿児島県)でも島津興業により復刻の動きがみられます。

この時、切子技術の指導者として招聘されたのは、当時東京で伝統工芸士として認定されていた根本幸雄氏ら江戸切子の職人たちでした。

薩摩で復刻された切子は、独自に色被せ生地の開発に挑み、カット技術においては江戸切子から学んで島津薩摩切子が誕生します。

当時の江戸切子は、手磨きによる仕上げ作業を簡略化するため、ボヘミアグラスなどにみられるような薬品による酸磨が普及していました。

これにより、江戸切子から学んだ島津薩摩切子は酸磨が主流となっています。

大阪での薩摩切子復刻より遅れること10数年後のことです。

その後、島津興業から薩摩びーどろ工芸が独立し、本場薩摩(鹿児島県)の伝統工芸品として認定されています。

 

まとめ

現在の薩摩切子は、古い作品を忠実に再現した復刻物と、薩摩切子の特徴を生かした新しいデザインの作品の両方が製作され販売されています。

この繊細な切子細工はその数奇な運命とあいまって、多くの人々の興味を引き付けているのです。

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Kitagawa
最後までブログを読んでいただきありがとうございます。 これからも日本酒についての記事を書いていきますのでブログシェアお願いいたします。

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